2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2013年6月29日土曜日

CD制作底抜け脱線録り物帖《その1/ベーシックトラックの巻⑤》《その2/オーバーダビングの巻④》

6月23日
今日の録音は午前10時から午後11時まで借りて各自順々に録音していく。
じゅんちゃんは朝早くから車で出て、無二太郎氏とくーちゃんそして機材を乗せてくる
予定。午前10時についてセッティングをして、時間があればくーちゃんのオーバーダビ
ング。わしは昼12時からの録音。14時からやっちゃん。16時からともねちゃんという予定。

スタジオ入口 静かです



チェック中の浪速無二太郎氏


12時前に着いたので、スタジオとは反対の出口を出てみる。スーパーやドラッグストア、
商店街がある。しかしちょっと先の甲州街道までらしい。レモン味の飲料水を買い踏切を
渡ってスタジオへ。入って見るとくーちゃんが「サイ空」をOD(オーバーダビング)中。
結構のりのりである。すぐにOKという事で、わしとじゅんちゃんでBT(ベーストラッ
ク)の残りの2曲を取り始める。最初は「温泉旅行」出だしが合わず何回もやりなおす。
う~ん。途中休んで打合せまた取り直す。結局これでいこうとなったのは、やっちゃんが
登場した13時45分頃。最後の1曲に入ろうとしたら、無二太郎氏が突然「1回で終わらせま
しょう」あれれ、やるだけやるか。「了解」と言ってしまった。ちょっと流してから始め
る。途中小石があったりしたがOK.わしはこれで一抜け。じゅんちゃんもおいら二抜け
と言ったものの、無二太郎氏から「じゅんちゃん仮歌いきます」のひと声。いま録った
2曲の仮歌を入れないと次のやっちゃんのODが入れられない。


わしが着いたらくーちゃんOD中



余裕?



真剣?



仮歌中


そこへテルミ社長とアリさん庶務課長が参上。社長は画像をいろいろ集めて編集をしてい
る。やっちゃん録音中も社長は写真をとったりしているが、アリさんは黙って眼を閉じて
聞いている。

社長ボケてしまってごめん


じゅんちゃんの仮歌が終わり。次はやっちゃん。バンジョー3曲、マンドリン1曲。
バンジョーを持って温泉から始める。2~3回やっているうち無二太郎氏曰く段々音が大き
くなってきた。調子が上がってきたのかな。その内やっちゃん必殺のじゃらららんがでる。
じゅんちゃん曰くこれが出ると本調子。そう言われると最初は遠慮がちだったが今はリラ
ックスして普通に弾いている。「港の酒場~」の時に間奏の途中で無二太郎氏がここ音変
という指摘、普通に聞きながすとわからんが指摘されて聞いてみると、確かに音が下がり
切っていない。ふ~ん、さすがだ。修正が入ったが後は順調に進みバンジョーの録音終了。
マンドリンに入る。「トラブルB」これもソロ部分何回か取り直したがOKとなり。やっ
ちゃん三抜け。




バンジョー演奏中



マンドリン


やっちゃんが終わりそうな頃、カンパを募ってわしと庶務課のアリさんとで買出し。
線路向こうのスーパーへ行く。何にしようかアリさんと一緒に悩む。こういう時はなかなか
難しいものだ。と一筋の光明、向こうの方で何かが光っている。おう、久しぶりやなと思
わず声をかけてしまった。赤いの白いの黄色いのが集まり、隣は銀色、その下はピンクと
黒。うまそうなすしだ。そうだすしだ。アリさんこれにしよ。で口直しに鳥甘酢煮をつけ
て、エビスビールをおまけに買う。表へ出て気が付いた。じゅんちゃんは今日は酒が飲め
ない。隣のドラッグストアでお茶を買いスタジオへ戻る。やっちゃんの録音が終わり乾杯。

ともねちゃんは予定より1時間くらい早く来て、個人練習をしたいという事で他の部屋を
借りて練習していた。軽く食べた後でカウベルで「トラブルB」を合わせる。音が段々と
かぶさっていくとこんなに変わっていくものなんだと何時も思わされる。次いで「夕焼け
~」にコンガを乗せる。あっという間にODは進んでいく。「陽出~」にタムと鈴をつけ
て終了。と思ったら「ビア樽~」の掛け声と歌を入れる。わしがトイレへ行って帰っ
てくると終わっていた。


ともねちゃん登場



セッティング中



鈴でっせ



まだ時間があるのでくーちゃんの残りのODを始める。「温泉~」「夕焼け~」「港の
酒場~」温泉の途中で無二太郎氏から注文A7からAMへの移行がはっきりしていない。
ふ~んよくわかるもんだ。わしも最近はギターも弾いていないし、コードの音の変化も
きちんとわかっていないところも出て来たから。時々はギターを弾いてみよう。心の日
記に走り書き。

本日の予定は終了し、10時30分になったのでかたずけに入る。今までで一番濃かった一日
だったと思う。後の大きな山ははフィドルとクラとサックスのODを残すだけ。機材を車
に詰め込み車組は落川へ楽器を背負った電車組は駅へと向かったのでありました。

はなはだ簡単ではありますが、これにて6月23日の報告を終わらせていただきます。
みなさんご苦労様でした。


営業一課 すちゃらかうーたろう

2013年6月21日金曜日

小島康夫33回忌法要報告

6月16日(日)、雨の中駒込に向かう。
今日は、かつて一緒にバンド活動をしていた、小島康夫の33回忌法要。
それと、小島のお父さんの23回忌法要。
お寺に着いて、12時から始まる法要まで時間があったので、まずは墓前へ。
近況報告がてら、エビスビールを飲む。だんだんと雨粒が小さくなってきている。
小島の従兄に促されてお寺の中へ。お経が配られ、読経が始まる。
ん?、うーちゃんが合わせて読んでるぞ。オイラも付き合うか、ムニャムニャムニャ。
3つほど、お経とか、お文とかあげていただく。あとから聞いたら、
このお坊さんは、いつもの人より長い時間読み上げてくれた、と云っていた。

法要を終えて、お墓へお参り。やっぱり雨は上がってる。小島の墓参りは、
梅雨の真っ最中にもかかわらず、今まで一度も大雨で困ったことはない。
せいぜいが小雨くらいで、おおむね晴れてるか、降ってても途中で快復してしまう。
お葬式の時なんか、ピーカンのお天気で、真っ青な空に持っていかれてしまった。




小島君のお母さんと親族、我々(すちゃらか3名&美江子ちゃん)は、お寺前から、
タクシー乗り合わせて、線路の反対側の霜降橋商店街そばの料理屋さんへ。
エビスの生ビールで献杯して、松花堂弁当をつまむ。
お母さん、美味しそうにビール飲んで、ウーロンハイまで飲んで、
食事もしっかり食べていた。83歳にして元気だぁ。うん、何よりだ。
小島の思い出話、お父さんの思い出話など、誰からともなく始まる。

1981年1月、娘が産まれて、そのころしていたキケン作業が伴う仕事を、
このまま続けるのはどんなもんかと思い、
「長野から帰ってきたら相談したいことがあるんだ」、と小島に電話した。
2人で音楽かける飲み屋でもやらないか?・・・、という相談だった。
しかし、その相談は、思っていただけで出来なくなってしまった。
あいつは、こっちには帰らず、あっちに逝っちゃったんだ。
そのあたりのことは、前回、じゅんちゃんが詳しく書いてますのでご参考に。

6月21日、小島が亡くなる直前、ある事件が起きる。6月17日昼前のこと。
通っていた現場のすぐそばで、無差別通り魔殺人事件が発生した。
「電波が飛んでる」、のアレです。しばらくの間、街中が線香くさかった。
小島を失い落ち込んでいたオイラは、その線香くささにトドメをさされた。
足場の上でこの仕事をやめる決心をした。
死んだらなんにもならんし、人はいつ死ぬかすら解らないものなのだ。
そして、翌年の4月2日、「のみ亭」を開店することになった。
父親になったことと、小島を失ったことと、のみ亭開店とは、
ひとつの流れでセットになっている。

話が、小島のフィドルの話になり、
「今、生きてたらすごいミュージシャンになってただろうな」、って云うと、
じゅんちゃんが、「もう、日本とかじゃなくて、世界に通用する人になってたよ」。
うん、確かにと、みんなで納得。
じゅんちゃんも書いてたけど、本当にあんなフィドルの音は聴いたことなかったし、
その後も聴いてない。あんな風に弾く人は未だに知らない。
あいつの出す音ってのは、この世の音というより、小島が弓を引くことによって、
どっか別のところから引っ張ってきた音に違いなかった。
じゅんちゃんも云ってたように、泣きも、吠えもしてたけど、
時に、かすれて細かく震えていた。あれはいったい何処の、誰の、何の音を、
引っ張ってきていたんだろう?。

小島は、背中が丸い病気で、これは小島の死後に、実家に行ったときに、
お父さんから聞いた話なんだけど、医者から、
「そんなに長く生きられない、10代・・・・・」、とか云われてたそうだ。
「そう云われながら、元気になってここまで生きてきてたのに・・・・・・」
「父の日にプレゼントくれるなんて、そんな似つかないことするから、
死んでしまったんだ・・・・。」
・・・・お父さんが作ってくれて、ベソかきながら食べた、
にんにくの効いたステーキ美味しかったです。つるむらさきの和え物も。

生きてる間の3年、死んだのちの32年・・・・。
弔い上げの共飲共食を終えて料理屋を出ると、
空がすっかり晴れていた。小島、お前にはいつも驚かされてばかりだよ。
娘のA子が、今日は用事で来れないというので、
今年は根津の「オトメ」は行かないことになった。
そこで、我々4人は、せっかくだから長生きしようよ・・・と、
駒込の「養老乃瀧」まで、フロウフロウ、と歩いていったのでした。


開閉商事 営業3課 やっちゃん


「2013年、お!な姫たち②」
・浜田真理子-But Beautiful
・畠山美由紀-rain falls
・吉澤嘉代子-魔女図鑑


吉澤嘉代子-魔女図鑑 -2013- EP

2013年6月12日水曜日

小島康夫との日々

その日の事は今でも忘れない。
1981年6月21日。
午後7時頃、仕事を終えて家に帰ると、薄暗い部屋の中で妻の美江子がオルゴールを鳴ら
して座り込んでいた。
泣き顔だった。
異様な雰囲気を察した俺は、ひと息吐いてから尋ねた。
「どうしたんだ?」
その途端、ぐしゃぐしゃの顔で泣き出した。
「小島くん・・ 死んじゃったよぉ・・・」
息が詰まった。
冗談でないことはわかったけど、なぜ? という疑問なんだか不満なんだかが頭の中でグ
ルグル回ってる。突然の出来事にどうしていいのか・・・、思考が止まり時間も止まった。
しばらくして、というかどれだけの時間が過ぎたのかわからない・・・。
二人で西荻窪に向かった。
 
千葉県市川市北方で俺たちは暮らしてた。
美江子は帯の仕立ての仕事で人形町へ、俺は図書館設計設備の仕事で亀戸から関東近辺の
現場へトラックに乗っていた。
その知らせは、やっちゃんの働いていた西荻窪ほびっと村/プラサード書店に入り、続い
てやっちゃんが美江子に伝えてきた。
長野県八坂村で喜多郎のレコーディングに参加してた小島康夫は、関係者を乗せた車を運
転して外出からの帰り、下り坂のカーブを曲がりきれず転落した。
車は斜面を滑り、何本かの木を倒しながら前のめりで止まったという。
同乗者は重軽傷、小島だけが帰らぬ人となった。
 
3年ほど遡る。
1978年。
西荻窪のシネマアパート。
やっちゃんとTちゃんの部屋に週末に行っては、酒を呑んでそのまま泊まったりしてた。
レコードを聴いたり、旅の話をしたり、映画のことや友だちのこと。いつも飽きることな
い話題で時間が過ぎていった。
でも、一番楽しかったのは二人でギターを弾いて歌っている時だった。
ある日、やっちゃんに相談した。
「なんか他の音入れたいね。バンジョーとかフィドル(バイオリン)とか。」
「そうだね。音が広がるよね。」
そこで、旧知のU澤に誰かいないか訊いてみた。
彼は、その頃オレンジ カウンティー ブラザースを抜けて、エドのバンドでベースを弾いていた。
そして、小島はそこでフィドルを弾いていた。
U澤に連絡先を教えてもらい内容を伝え、西荻窪駅の改札口で待ち合わせることとなった。
俺とやっちゃんが先に着いて、小島がフワッとやって来た。
そしてそのまま呑み屋へ。
「戎」が一杯だったんで、角の呑み屋にした。
俺と歳(学年)が変わらず、やっちゃんの康史と小島の康夫で康がかぶってる・・・なん
てのをネタにしながら、盛り上がった。
初対面なんだけど、こいつ絶対いいヤツ! って確信したよ。
で、そのままやっちゃんの部屋へ流れて、呑み直した。もちろん、ギター弾いて歌って笑
って愉快な一夜だった。
その後は、三人で時々だけど、ライブをやった。
なにせ、小島は売れっ子だった。エドズ・バム(エドのバンド)とか喜多郎のとことか、
南正人のレコーディングやボブズ フィッシュ マーケットのゲストなんかにも参加してた。
でも俺たちがライブの話をもっていくと、なんとかやりくりして合わせてくれた。
 
天才だったね。
レコードであっちこっちのフィドルは聴いてたけど、あんな音聴いたことなかった。
初見で合わせるのはモチロンだけど、ソロの時の盛り上げ方っていったらなかった。
山頂まで一気に連れていかれてしまう。そしてそれが仕組まれてたかのように盛り上げ、
盛り上げて、次につなげてくれる。
フィドルが泣いていた。
フィドルが吠えていた。
どんな曲でも、変わらない。
歌ってる時はけっして出しゃばらず、隙間を気持ちよく埋めてくれて、全体の構成みたい
なものをキチンと仕上げてくれる。
そして、ソロの時は・・・。何度も繰り返すが、小島以外がいなくなってしまうんだ。
小島のフィドルが入ると、錆びてた唄がピカピカに輝き出す。
確実に唄にうねりが生まれるんだ。
うまいフィドル弾きはいっぱいいるけど、あんなに感情を音にして、心から心に入ってく
るフィドル弾きはいない。
音階にない音がいっぱい聴こえた。俺には。
 
高校を卒業後、何年かして小島はヨーロッパからイギリスへ旅をした。
その時の話を呑みながら、俺にいくつも話してくれた。
アイルランドの民謡や楽器のこと。不思議なことや失敗談。
形見分けの時、俺もやっちゃんも何点か、服とか小物とか分けてもらった。
レコードも何枚かもらった。
すごい数のレコードがあった。
でも、もっと驚いたのは、それらが全部極めつけの一級品だったってこと。日本じゃ見か
けないジャケットがいっぱいあった。向こうで買って、船便で送ってきたそうだ。お母さ
んが話してくれた。
でもでも、極めつけの一級品だったということは、あとになって分かったんだ。
その頃の俺は、トラッドとかアイリッシュとかそんなに興味なかったので、フェァポート
とかサンディ―デニーぐらいしか話を合わせられなかった。小島はもの足りない思いをし
てたんじゃないかなぁ・・・と今になって思う。
話し上手でもあったよ。
「淳ちゃん。アイルランドの子供の遊びってね・・・。
学校からの帰り道、石ふたつ見つけて、かわりばんこに足で蹴って当てながら、それをず
っと続けて家まで帰るんだ。それだけ。イイよね。フフフ・・・。
 
実家は虎の門で中華料理店をやってた。
やっちゃんの部屋に集合ってことになると、時々中華料理の差し入れを持ってきてくれた。
「店で余ったやつだよ。」って言ってたけど、み~んなウマかった。
小島の死後、何度か店へ招かれ、お父さんにその話をすると、「あのやろー、それで友だち
に会うって時は、厨房でゴソゴソやってたのか。」なんて、嬉しそうに話してくれた。
小島は一人っ子だった。
住居は恵比寿にあって、小島とどこかで呑んで、遅くなったので泊まったことが2度ほどある。
真夜中の恵比寿駅からの道を昔の流行語を言い合いながら、フラフラ大笑いして歩いた。
最初に泊まった日の翌朝、トイレに行こうと部屋を出たところでお母さんに会った。
初対面なので、コチコチになって挨拶をすると、「ゆっくりしていってね。」とにこやかに
言われた。友だち慣れしてるなぁ・・・と思い、小島の友人の多さを改めて知った。
通夜の時は、300人以上が悲しみの列をつくり、家を取り巻いていた。
ここへも葬儀後に何度か招かれ、その度にお父さんと酒を呑んだ。
会津生まれで昭和を生き抜いた頑固そうなお父さんで、最初はものすごく緊張したけど、
話をするとすごく気さくで、照れ屋で、小島のことすごく愛してて、それがすごくこっちに伝わった。
涙もろくなって、酒も弱くなってしまったと悲しそうな笑顔で言ってた。
お父さんも亡くなった。店も恵比寿の実家も今はない。
お母さんとは昨年、お墓参りをご一緒させてもらった。
今年は33回忌にあたり、法要に呼んでいただいたので、またお会いできることになっている。
あれから・・・、毎年621日前後の日曜日に、駒込にある小島のお墓に行くコトが俺た
ちのキマリになっている。花と線香とヱビスビールを供え、それぞれが心の中で小島に近
況報告をする。
思い出はそこで輝きつづけ、残された者は老いを積み重ねていく。
数年前から、小島が生きていた年月を命日の回数が追い越してしまっていた・・・。
小島の若く、そして早すぎた別れが悲しい。
 
一度、Tちゃんがなにかの用事でいない夜があって、俺小島やっちゃんの男三人で「男の手
料理の夜」をやろうということになった。みんなで買い物に行き、呑みながら「手料理」を作った。
小島は油揚げを開いた中に納豆とネギを詰め、フライパンで焼いたやつを作った。
「おおっ! うめい。うめい。」
「フフフ、男の手料理!」
「あぁー 酔っ払ってるからうまい!」
「ガックリ・・・」
今でも時々こいつが無性に食べたくなる時がある。そして食べるとこの夜のことを思い出す。
亡くなる年の1月、やっちゃんとTちゃんにA子が生まれ、3人家族になった。
小島はA子を抱きながら「大きくなったら、俺の嫁になれよ。」なんて言ってあやしていた。
A子は今、2人の子供のお母さんだ。

やっちゃんとの3人バンド(「カントリードリンカーズ」とか「新高ドロップス」とか「プ
ラサーズ」なんてバンド名を使ってた。)の他に、俺と小島とY本/BASSとS田/PIANO
4人で「GRANDMOTHER JOINT」というバンドを作った。
ドラマーとかギター弾きとかが集まってきて、5人~6人ぐらいのメンバーになった。
「アメリカ民謡研究会」って団体を作り、市川市教育会館のホールを借りて、半年に1回
くらい「JOOK JOINT JUNK」ってコンサートを開いた。
自分たちで仕込みをして、ステージを作って、酒を持ち込んでガヤガヤとセッティングした。
知り合いの口コミだけで、音楽と酒の大好きな人間が集まった気の張らないコンサートだ
った。パーティーって言った方が近いかもしれない。
前日や当日、小島は北方に泊まっていった。梨畑に囲まれた丘の上の家だった。
小島が初めて泊まった翌朝、どこへ行っても梨畑に出くわす道を一人で散歩に出かけていった。
帰ってきて「淳ちゃん、いい所だね。ここ。」って言ってた。
小島が気に入ってくれて、俺は嬉しかった。
あちこちで俺の友だちに小島のことを紹介した。自慢したかった。そして、小島の音を聴
いてほしかった。
小島は誰とでも仲よくなった。悪く言う奴なんていなかった。
俺のクダラナイ冗談にいつもケラケラ笑い転げてくれた。
伊東四朗と小松政夫のコンビが好きで、俺とツボが一緒だった。
会うと「つんつくつくつくつ~ん・・・ひゃ~・・・」の合言葉で始まった。
眼鏡の奥にやさしい瞳があって、一緒にいると心があったかくなった。
みんな小島が大好きだった。
  
GRANDMOTHER JOINT/市川・1979

GRANDMOTHER JOINT/市川・1980

 
小島と美江子/市川・1980
   

プラサーズ/ナモ商会・19815月30
   

喜多郎のレコーディングで小島が長野に行く何日か前、5月30日。
俺と小島とやっちゃんの3人バンド(プラサーズ)で、ナモ商会(ほびっと村1階の八百
屋)のパーティーに呼ばれた。
6曲くらい持って、会場に行くと小島の友だちでH岩くんというベース弾きがいた。
一緒にやろうという話になり、4人バンドに変身した。(そうだ! H岩くんも初見でこの
日合わせたんだ。)
パーティーは大人も子供も騒ぎまくって、いつもながらの楽しい夜だった。
最後の唄は「天国の扉」だった。
後半、リフの「KNOCK KNOCK KNOCKIN ON THE HEAVENS DOOR」をいつもなら、ひと盛り上げさせてエンディングに入るのだけど、何故かコントロールが効かなくなってしまった。
小島もやっちゃんもコーラスをやめようとしない。会場中も歌い始めて、もう誰にも止め
られない状態になった。
このまま一晩でも歌えるような気になった。
歌いながら、どこへ連れて行かれるんだろうと思った。
突然、何故かフッと醒めて、テンポを落としていった。
長い坂道をゆっくりゆっくりとみんなで下っていって、演奏を終えた。
片づけを終えて、うま~い酒で乾杯をした。みんなで笑った。「唄」っていいなぁ・・・と
思う、いつもの瞬間だ。
めずらしく小島が真顔で語りかけてきた。
「淳ちゃん。今度みんなでツァーに行こうよ。あっちこっちいろんなところ。俺の知って
る店に話しておくからさ。来月長野に行くから・・・、そうだ、最初は仏陀でやろうよ。
善光寺の近くにあるんだ。」
「おっ! いいね。じゃ帰ってきたら連絡ちょーだい。とかなんとか言って、あっ忘れて
た! なんてのは無しだからね。」
「ふふふ、大丈夫。」
「じゃ、待ってるよ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
HEY Mr.K どうしているんだい
今でもおまえの事が気がかりなのさ
風吹く丘で誰を見てるのか
紫の雲に乗り 何処を飛んでるのか
 
HEY Mr.K 追いつづけてるのさ
今夜いつもの酒場で一騒ぎを終えて
終電にゆられ帰るところ
おまえと歌った唄を思い出しながら
 
HEY Mr.K 遠い灯がゆれてる
恵比寿 下北 西荻 街をすり抜けて
思い出がいつも帰っていくところ
あのレイジーブルース聴きながら 目を閉じよう
 
HEY Mr.K おまえを連れてった
あの夏の日が今でもあきらめきれないのさ
KNOCKIN´ ON THE HEAVENS DOOR 消えていくけれど
いつかまた逢えるはずさ 空の向こう側で
 
HEY Mr.K どんな時でも
変わらないものがある事 おまえに教わったよ
俺達はいつもあの頃のままさ
いいかげんな世の中をおかしく生きてやる
 
HEY Mr.K どうしているんだい
今でもおまえの事が気がかりなのさ
HEY Mr.K HEY Mr.K
おまえがいっちまってから 俺はさみしいよ
 
おまえがいっちまってから 俺はさみしいよ


《営業2課 じゅんぼう》

2013年6月7日金曜日

〇月〇日〇曜日 その5 後編

我が愛しの黒曜ちゃんは何処に?

なんでこんなにいい天気なのだろう


何人か集められた。今日からみなさんにはプレ掘りというのをやってもらいます。
旧石器時代のものを調査します。2,5m四方の穴で深さは1,5mまで掘ります。掘ると
言っても削るように掘ります。遺物があるとカチっという音がするので見落とさな
いようにしてください。遺物がでたら声をかけてください。と言われ、あまり訳が
わからないままに二人ひと組で掘り始めた。しかし、カチっともうんとも言わない
大分掘っていったらえんびがカチっといった。移植でその辺りを軽く掘ってみたら
石が出て来た。その辺にころがっている石のようだ。社員の人が近くに来たので呼
んで聞いてみた。これはいも石だね。いりません。ふ~んいも石っていうんだ。こ
れはいらないのね。でもなんでいも石っていうんだろう。いもににているからかな。
なんだかんだやっているといも石ばかり10個位出て規定の1,5mになった。この後は
どうするんだろう?聞いてみると、北側の壁をキレイに土の層がよく分かるように
両刃(両刃の道具で撫でるように削ると面がきれいになる)で削ってくれとのこと、
結構時間をかけてキレイにして聞いてみた。大体良いけどこの水平に出ているえん
びの址が写真を取ると土地の層と混同するからこれをもっとキレイに、それと側面
が垂直になっていないで底の方になるに従って内に寄っているこれは次から注意し
て、あと底の面を平らにキレイにして下さいと言われた。結構大変なものだ。と、
そこへ調査員の方が来て、もうOKだね。と言って北側の面に釘で線を引き始めた。
そしてその後写真を撮った。この穴はこれで終了らしい。他の穴を聞いてみると、
やはりいも石しかでなかったらしい。ほとんどでなくて当たり前のことを言ってい
た。一つの穴で4日から5日位かかった。3個位掘ってもいも石しかでない。ただひた
すら掘るしかないのか。1,5m位になると土が湿っていて中は蒸し暑くなる。上に出
ると涼しく感じる。全部で150個位になるみたい。考えただけでいやんなっちゃう。

何個目かで他の人が掘った途中の穴に入った。穴を拡げていた。真中に大きい石が
出ていた。思わず聞いてみた。いも石とこの石の違いはなんですか?いも石は川が
氾濫したりして流れて来たもの、だからまわりががけずられて丸みをおびて小さい。
この石はそれよりも大分大きいので人が他所から持ってきたものと思われる。よっ
て遺物扱いとなる。人の手が関わったのが遺物と考えていいわけですね。そう石器
なんかも人の手によって加工されたわけだから。ちなみにこの石は焼け石っていって
火で焼いて水の入った器に入れてお湯にしたり、具を入れた器に入れれば煮ものが
出来たり、上に包んだ肉や野菜を置いて上から土をかぶせれば蒸し焼きが出来たり
で料理に使った石なわけ、でこれが南東寄りに出て他にまだ出るかもしれないので
南と東に1m拡張して掘ってもらっている。そんな話しを聞いてしばらくすると、
その社員の人が来て、今向こうの穴で黒曜石が出たよ。見たことないのなら見てき
たら綺麗だから。見に行った。黒く光って綺麗だった。黒く輝く石とは良くいった
ものだ。見つけた人は調査員の人に先生ガラスが出ましたと言ったらしい。そう言
ったのもよく分かる。わしも黒曜石を見つけたい。その穴も拡張に次ぐ拡張でその
人は全部で8個ほど黒曜石を出したらしい。本当にうらやましい。

いも石にしかあたらずに何日もたってしまった。石器も出ない。黒曜石も出ない。
黒曜石はどこにある?などと思いながらまた途中から拡張になった穴に入った。そこ
も真中に大きな石が出たところだった。南東の拡張。とりあえず石の出た面まで掘
って、層としては六層くらいらしい3万年位前みたい。このあたりからは結構色々出
るみたいだ。が、わしが掘るとでない。くやしい。1,5mいくと10層で大体4万年位前、
この層からはほとんど何もでないらしい。いやあ10層からでたら大したもんですよ。
全国的にもあまり出ないから。調査員の方もそう言っていた。石の出た層まで掘って
壁と床をキレイにして写真、遺物を取り上げたら、元の大きさに戻って1,5mまで掘る。
1,5mの底に近づいて最後のワンスコップを掘りながら後ろへ下がっていくとカチっと
きた。中くらいの石だった。聞いてみるととりあえず残しておいてとの事。その横へ
30Cm位掘ったらまたカチっときた。よく見ると素人目にもよさそう。近くに来た調査
員の人に見てもらうと、う~んこれは石器の破片だね。よく出たねえ。えっ10層か。
すごい。じゃ拡張。先に再度拡張した面をさげる事になった。そろそろ最後のワンス
コップの所まできそうになった時に調査員の方が来て、まだ出ませんか、一つじゃさ
びしいからもうひとつくらい欲しいですね。拡張分が終わり再度一番下の段に戻って
掘り始めた。すると一緒にやっていたNさんが名前を呼ぶ、何かといって見に行くと
出た。わしのよりいい形をしている。調査員の方ににてもらったら、これはいいです
ねえ。やりましたね。他の調査員の方も来て、結構な騒ぎになってしまった。それほ
ど10層から石器が出るのは珍しい事のようだ。で、再度新規に拡張、うえから10層ま
で拡張して掘るのはいかにも大変なので6層まではユンボで削り、その下からは人手
で行う事になった。

わしらは隣の穴へ移動。そこも大きな石がすでに出ていた。そこも南東1mの拡張。
とりあえず今ある底まで拡張分を掘り下げ、その間は何も出なかった。それから
拡張分も含めて掘りだした。スコップ二つ分位掘り下げる間にわしが小さい石器Nさ
んが小さいけど形のいい石器を出した。そろそろ壁を少しキレイにと思ってえんびで
壁を削っていたら、ガチっと来て土がすっと落ちたと思ったら黒い大きな石が現れた。
直径12~13Cm位か薄い。おう、息を飲んだ。なんかわからんがもしかしたら大変かも
しれん。調査員の方はと見回したら、みんな遠くにいる。ちょっと落ち着けといい聞
かし、まあ近くに来たらでいいやと思い直したら、I先生が来た。先生これっと言っ
て指差す。先生目を開き、これはすごいスーパー石器だ。その後みんな寄って来た。
ちょっと欠けちゃったのが惜しかったね。すいません。壁削った時に出たもんで。昼
休み後にもみんな寄ってきて見物。しょうがないのでわしが手にとってみんなにみせ
てあげた。背の高さは変わらないが鼻だけ少し高くなったかもしれん。一応規定の所
まで掘り下げ拡張は隣の穴をやってる人にまかせた。黒曜ちゃんにはまだ会えない。

次の穴はどこかと社員の人に尋ねたら。う~んと唸ってどうしようここにするか。
その穴も前に1日だけ他の人が掘ったところだった。遠くから見ていたらやけにくしが
刺さっているので見に行ったら掘るというよりもちょっと上を撫でただけで、焼け石
のような礫が沢山でて来ていかにも掘りにくそうだった。ここですかこりゃ掘りにく
いですねえ。などといっても仕事だからやらねばならぬ。が全然あかん。ちょっと
掘るとすぐに礫が出てくる。ほとんどが焼け石。調査員の先生曰く、ここは出て来た
もの全部残しておいてください。とりあえずデコボコだった面を平らにするところか
ら始めた。それでも出てくる。こりゃ多すぎて掘れませんねえ、と先生に言ったら、
細かい石だけあげてもらいましょう。少しは隙間が出来て来た。一応ワンスコップさ
げて様子を見る事にしたが、本当によく出る事。西側半分は足の踏み場もなくなって
きた。とりあえずこれで壁と底をキレイにして、写真を取り測量をして遺物をあげて
もらう事になった。底をじょれんでキレイにしていると、小さな薄い石が出て来た。
そのままにしておいたら、先生が見てこれはナイフです、と言った。他の先生も来て
教科書に載っているようなナイフだね。まあ、又拡張するのはしょうがないな。遺物
は西に沢山かたまっていて南に若干寄っている。南と西への拡張だな、と勝手に考え
ていた。調査員の先生が来たので社員の人と聞いてみた。どっちの方へ拡張ですか?
○○の方へ拡張です。聞えなかった。社員の人もえっ?と言ってこちらを見る。何と
言ったのですか聞えなかったのですが。四方といったみたいよ。四方?南とか西とか
方角の言葉が出ると思ったら数字が出て来た。四面1mの拡張と相成りました。

遺物をすべてあげて、何も無くなったところをきれいに平らにして、1mの拡張に入っ
た。東側はなにも出なかった。四方と言った先生が来て、全然出ませんか?と不思議
そうな顔。でないものは出ない。南側を掘った。西のはじで先の尖った小さな細い石
が出た。I先生がすばやく見つけて、これはようやく石器らしい石器が出ましたね。
と言った。尖頭器石器らしい後ろが欠けているのが惜しいねと言っていた。ナイフは
出るし尖頭器石器も出るし、石の数は多かったけどなんかちょっと楽しくなってきた。
とその時カチっと来た。また焼け石かなと思ってきたら、ちょっと小さい、あれっ?
黒いよこれ、もしかしたら、どうしよう、ほんとうかな?あわてるな、先生はどこだ
ちょっと息を整えよう。でくしを刺してその場所でちょっとの間止まっていた。する
と音もなく現れたI先生がそのくしで黒い小さな石をいじっている、横から思い切って
聞いてみた、先生黒曜石ですか?そうです。やったあ。黒曜石だあ。プレ掘り2カ月に
してやっと黒曜石に会えた。愛しい黒曜ちゃん。お初です。うれしいい。とまでは思
わずクールに仕事を続けた。1m位横に進んでカチっ、うむ?あらら、まただ。また出
た!黒曜石だそうかこんなところで皆で待っていてくれたんだ。なんて健気な子たち
なんだ。おじさんも本当に君達に会えてうれしい。などと思わずにクールに仕事を続
けた。しかし、気持ちはもう大満足。こうして私のプレ掘りは終わったのでした。

そんな訳はありません。この仕事は拡張を終えて、何も出なかったら元の穴に戻って
下へ1,5m掘って終わりとなる。遺物がでたらまた拡張。わしが黒曜ちゃんに会った時
も拡張だったが、その後西側にまた大量の焼け石を含んだ礫と黒曜石が出て再再度の
拡張そしたらまた西側の南の方にまたまた大量の礫と黒曜石。結果東西6,5m南北は隣
の穴とも繋げて9mとなってしまいました。まだ30Cm位しか掘っていないのに。そして
ようやく横ではなく下に向かって本当の穴を掘り続ける事になったのであります。
すいません。写真も無く長々と、ここまでつき合ってくれてありがとうございました。

PS 文章の中で間違いや不明な点がありましたら、私の聞き違いや勝手な解釈に
   基づくもので、責任はすべて私にあります。

営業一課 すちゃらかうーたろう

2013年6月2日日曜日

〇月〇日〇曜日 その5 前編

我が愛しの黒曜ちゃんは何処に?

2月中旬からバイトを始めた。遺跡の調査の仕事で、初めは寒かったが3月に入ると
どこかで鶯が啼き、やがて桜は咲き始め、4月中頃にはツバメが飛び交い、5月には
風がさわやかに吹き空も澄んで、穏やかな日差しを浴びて、ストレスも無く仕事を
するというのは、こんなにもいい事なのか。申し訳ない。

今日もよく晴れた

しかし、現実は。
初めて現場に来た日に説明されたのは、「遺跡の調査というと刷毛とかで遺物を
キレイにしながらのんびりとやる仕事と思って来た人には申し訳ないが、ここで
やる仕事はドカタの人と同じです。土を掘って運んで捨てる。ほとんどがそんな
仕事です。最初に1週間は体が痛いです。そう思って仕事をしてください。」
その後に最初にやったのはじょれん(畑仕事で使うクワのこと)で土の表面を削
りとる仕事。小さい時に畑でクワを使って遊んだのとはわけが違い、言われた通
りにクワを立てるようにして土を削るとえらいしんどい、汗が出てきて腰が痛く
なってきた。そのうち2人3人と他に連れていかれ、3人が残った。いつまでこれを
やらないといけないのか。もういい加減にしてくれと思っていたら、こっちに来
てと呼ばれた。行ってみると土の表面をキレイに削った後を指さして、この黒い
部分を掘って黄色い土が出てくるとそこは硬くて掘れないからそのままにして、
何しろ黒い部分を掘って、使うのはこの移植を使って下さい。えっ?移植って
この小さいの?園芸で使う移植用シャベルをことを移植と呼ぶらしい。言われた
まま掘ってみると硬くて掘れない、しょうがないので少しづつ掘る。全然掘れない。
その内に手が痛くなり、指も痛くなってきた。しゃがんで掘っていたので、今度
は膝が痛くなってきた。しょうがないので四つん這いになったら今度は首が痛く
なってきた。あらら、これはしんどいわあ、他を見渡すとほとんどの人が穴を掘
っている。スコップ(ここではえんびというらしい)を使ったり移植を使ったり
えんびで掘った土をみ(土を入れて手で運ぶ入れ物)で残土置き場に捨てたり、
ねこ(一輪車の事)で土を運んで捨てたり、人が大勢いるのは住居址みたいで
黒い土がキレイにならされている。くしが何本か刺してある。遺物が出るとく
しを刺しておくようだ。一日目が終わって帰り道、体が重くて歩くのが遅い、
おばあさんにも抜かれてしまう。明日おきられるかなあ、などと思って家に帰った。

ある時、じゃあここ掘ってくれます。ここは遺構じゃないからえんびでガンガン
掘ってくれていいです。底にあたるまでお願いします。底っていうのは黄色い土の
事でローム層のこと。1,5m四方ぐらいか、この方が楽かもしれんと思って掘ったが
やはり楽なはずが無い、深くなってから土運びを手伝ってくれたじいさんが、あん
たそんな頑張らないで息入れなよ。さっきから全然息入れてないじゃない。と言っ
てくれたが休むとなお疲れる気がする。しかし、途中で一息入れながら掘る。ひた
すら掘る。が、底が出てこない。底が出ない場合、深さ1,5m位でやめるらしい、あ
まり深いと危ないからのようだ。そのくらいの深さになった時に、まだ底が出ない
のですがと言ってみたら、ちょっと待ってと言ってピンホールを持って来て穴の底
に差してみた。するとずずーと入ってしまい止まらない。底にあたらないね。じゃ
後ワンスコップ分(スコップの先一つ分)掘って終わりにしましょう。で、壁と底
をキレイにしたら声かけて下さい。チェックしますから。その通りに壁と底をキレ
イにして声をかけた。これでOKです。土のうをあげてから上がって下さい。次の
場所指示します。えっ?土のうを上げてから?穴が深いので土のうを足場にして上
がり降りしてたんだけど、土のう上げたら上にあがれるかな?穴の縁に手をつけて
飛び上がった。あかん、ダメ上がれない。あっという間に落ちた。するとちょっと
先にいたおばちゃんねえちゃんが笑った気がした。やべえ、2回目は失敗できへん。
どうしよう。よし息をととのえて、それっ、ああああ、縁にしがみ付き足を横から
一生懸命上げてようやく上がれた。たった3秒位なのに息が切れた。しんど。

今まで住居址やったことありますか?いやないです。一度やってみたいと思ってい
たんですけど。じゃあここやってもらえます。やったあ、あこがれの住居址だ。と
思って5人位先にやっている人に交じって与えられた区画を移植で掘り始めた。表
面は黒い土だったがすぐに黄色い土が出てきて、ある部分だけ黒いままなので、そ
こを集中的に掘っていった。するとビニール袋に入った割れた西洋磁器やびんなど
が出て来た。こりゃ誰かが穴を掘ってごみを捨てたんじゃないの、と思っていたら
調査員の方が来て、あらあそんなのが出て来たの。ここは住居址じゃないわね。で
あえなく初めての住居址はとん挫。もうガンガン掘って構わないとなって掘ったら
土管が出て来た。

遺構は入って3日目位にやった。何しろまだまだ道具の使い方もわかっていない。
自分なりに移植で掘り進んだ。すると赤っぽいかけらが出て来て調査員の方に聞く
と、土器の欠片だからくしを刺しておいてと言われた。やったあ土器だ弥生時代
らしい。どんどん掘っていったら7個か8個位出て来た。なお掘り進み深さが1m位
になったところで穴の上から声がした。掘り方に注意して。手前に向けて掘るよう
にしないと遺物があった時に手がすぐにとまらないよ。で、社員の人が降りてきて
教えてくれた。手首を使って少しづつ移植が手前へ来るように掘る。言われた通り
にしたらえらいしんどい、こんな風にやるのか。すこしづつ時間をかけないといけ
ないのか。こりゃ大変だ。穴から出て土を捨てていると、調査員の方が、この穴と
あそこから続く穴が繋がっていて結構大きい掘立小屋があったと思われるんですよ
ね。そうなんですか。ふ~ん、下しか見てないからわからないけど全体をみると
いろいろ考えられるんだ。そんな当たり前の事に気が付いた。

大きな住居址では、最初は小さい土器の破片などが出ていたが、その内土器そのも
のの形のものも出て来た。横を通る時にいいなあ、わしもあんなの出してみたいな
あ。と思ったが、何日かして3人位でせいぜい直径20から30Cm位の小さい穴を手分け
して掘っていたら、ひとりの子がほとんど形の崩れていない土器を出した。30Cm位の
穴の中にすっぽり入っていた。こんなこともあるのか。ビックリした。

何人か集められた。今日からみなさんにはプレ掘りというのをやってもらいます。
旧石器時代のものを調査します。.............

以下後篇へ続く

PS 文章の中で間違いや不明な点がありましたら、私の聞き違いや勝手な解釈に
   基づくもので、責任はすべて私にあります。

営業一課 すちゃらかうーたろう