突然、詞のワンフレーズが浮かんでくる。あるいは降りてくる。
まさに前ぶれもなく、いきなりだ。
「おぉ、なんて斬新で美しい言葉たちよ!」
「詩は人生のために! 人生は詩のために!」
なんてね。
時にはメロディーとセットになって、現れたりもする。
かなり舞い上がる。コントロールできなくなる。
「最高傑作が出来た!」
「俺は天才だ!」
が、たまにそれは、既成の唄だったりして、「俺を育てた唄たち」と判明する時もある。
まぁその時はそこで終了だ。
何十年も俺の体の中を巡って、体外に出てきたってわけだ。
はい!ご苦労さん!
で、話を戻す。
最高傑作との出会いだ!
俺はホヤホヤのそいつらをゆっくり反芻するとiphoneを手に持ち、ボイスメモに録音する。
いやぁー、便利になったもんだ。新曲のカケラ確保!ってなカンジ。
それから、出来たてのフレーズをさらに頭の中で広げていく。広がらなかったら、ひとま
ず終わり。どちらにしても、家に帰って再生しながら、楽器をつけてなぞり、自分のもの
にしていく。その日のうちに仕上げられる時もあれば、何ヶ月かほっておいて、あれこれ
形を整えたり、ことによっては2つ3つと合体させて出来上がることもある。
俺は、そんな飛行前の曲たちを「原石倉庫」というフォルダーに貯めこんで、眠らせている。
二十歳前後の頃だから、1970年代前半だ。
俺の周りのヤツラは、長髪・ジーパン・肩掛けバッグの3点セットが定番スタイルだった。
俺もバッグの中には、歯ブラシ・タオル・Tシャツ・文庫本、そしてノート・手帳・ボー
ルペンなんかを入れていた。いつでも泊まれるように、そしていつでもどこでも創作活動
が出来るようにってワケだ。
たまにバッグを持たずに手ぶらの状態で、ワンフレーズ発見!の時があった。そんな時は、
街の中なら駅に急ぐ。そして定期券売り場に行き、紐付きボールペンを取り、「定期券購入
申込書」の裏に書き込んでいった。
駅のない場所の時は、とにかく近くの商店に行き、丁重に頼んで筆記具を借り、手のひら
に書いたり、喫茶店に飛び込んでナプキンやコースターの裏に書いたこともあった。
コトバは、そのようになんとかなった。
問題はメロディーだ。
譜面が書けない読めない俺にとって、出先で浮かんだメロディーを頭の中に抱きかかえ持
ち帰るのは、ヒマラヤの雪男を連れて帰るのと同じくらい困難だ。
泡のように虹のように、消えていったマボロシの名曲はかなりの数だった。
その頃、俺は「鹿鳴館」というバンドを組んでいた。
バンドメンバーでベースのY本は、熊本から上京しJ智大学に入学した。
一人暮らしを心配した親は入居後何ヶ月かして、その当時高価だった留守番伝言録音機
(留守番電話のことね。その当時はこんな呼び方じゃなかったかなぁ・・・)を電話に取り付
けさせた。Y本は、おぼっちゃまだったのだ。
しょっちゅう遊びに行ってた俺にY本は、その留守番伝言録音機の便利な点とおかしな遊
び方を説明してくれた。
そんなある日のこと、俺は買い物中にスンバラシイメロディーが湧き上がった。
最高傑作だ!
どうする?
俺は困った。
で、瞬間的にナイスな作戦が広がった。
そして、そのピカピカの旋律を忘れないよう閃きを直結させ気合を集中し、大声で歌い続
けながら、公衆電話を探した。
周りの景色を目に入れるな!
いい女が来ても見とれるな!
「頼む! 今の俺に話しかけるな!」
やっと探し当てた公衆電話から、Y本の部屋に電話をかける。
この時間は学校に行ってるはずだ。
事務的な機械音のメッセージのあと、俺は突っ込んでいった。
「Y本! オレ! ふんふんふんふん~♪ ルルルルル~♪」
そこまで一気に歌い、電話を切った。
ふ~ぅ・・・。まさに俺は、録音を終えてスタジオを出るようだった。そんなカンジで電
話ボックスを出た。
つーことで、この方法はかなり使えた。
留守番電話に入れさえすれば、あとでY本に連絡を取り、回収すればいいってことだ。
ついには、名前も前フリも省略され、
「ランラランのラララ レレレでラ~♪」
のイキナリレコーディング方式となっていったのだった。
Y本は会うたびに俺に言ってた。
「日川(俺のことね)、あんまりおどろかすなよ~。びっくりするよ~。」
携帯もウォークマンもなかった頃、昔むかしの話さ。
再現するとこんなカンジ |
こいつらの時代もあった |
《営業2課 じゅんぼう》