当然であるが、行動半径、あるいは範囲というものは、成長とともに広がっていく。
生まれたばかりの時は、自分の体より一回りも二回りも大きなシーツの海が一日かかっても泳ぎきれず、両目で天井を追うだけの毎日だ。
みんな、そこから始まる。愛をいっぱい受けて・・・
そして、自力歩行が出来るようになると、親や祖父母に連れられ、近くの公園や空き地へというパターンから始まり、幼稚園へ行くあたりから自立化、並びに容認化され、友だちの家なんかに行くことになる。
そして、小学生の3~4年生くらいになってくると親に内緒のアソビが始まり、秘密基地やトナリ町への探検なんかが組まれていき、知らないコトを知っていく楽しみやゾクゾク感に夢中になっていく。いろんなものに目覚めていくんだなぁ・・・コレが。
親とか回りから言われているワルイことってのが、ほんとに悪い事だっていうのと、まんざらでもそうでもないじゃないかってのに気付いていくんだ。
中学生になるとそこにじわじわと青少年へのイザナイが押し寄せてくる。
もやもやしたモノが、己からも周りからも、どうにもならないくらいの流れで日々を侵食してきて、コドモとオトコとオトナの中、ど~すりゃいいのさの思案橋状態でいろんな解答を求め始められる。
中途半端な町、新小岩で中学生になった俺は、まだ人生のナンタルカを知らずに、タリラリラ~ンでいた。
兄貴のいるヤツがこっそり「平凡パンチ」を持ってきて、みんなで回し読みした。
姉貴のいるヤツは女性の下着情報を講義してくれた。
クラスメイトの女子たちがどんどん大人びていって、広がっていく距離を感じていた。
小学校の時は、新小岩駅の周りのプラモデル屋とか本屋とかを自転車でグルグル回って、それはそれで愉快だったのだけど、中学校になると憑き物がとれたように、それは幼稚な風景になっていった。
いつからか、誰からか、俺たちは新小岩は卒業して、電車で三つ目の錦糸町にシゲキを求めていった。
錦糸町駅はショッピングビルの一階が駅の改札口になっていて、見方を変えると駅の上がショッピングビルになって、新小岩にはないアソビバだった。エスカレーターやエレベーター、階段、さらには屋上を使って、「アッカンタンテー」ををよくやった(今どきは、刑泥っていうのか? 地域で呼び名は違うだろうけど、まぁ鬼ごっこだな)。
迷い込んだ階で一人、人波の中を彷徨っていると、「オレ」は異国の旅行者みたいだった。
俺のコトを知らない人たちの中で、迷路のような店々の間をすり抜け、迷い佇む楽しみを味わっていた。
キップの販売機の横に小さな白い木箱が取り付けてあって、「地の塩」って書いてあった。ん・・・昔の木の牛乳箱、ってわかる?・・・あんなカンジ。
で、そこには電車賃に困った人はこの中のお金をお使いください。って小さな文字で書かれていた。余裕のある人が小銭を入れて、困った人がそれを使うっていう共存的循環システムなんだろうけど、入れている人も取り出している人も見たことがなかった。高度成長の時代だったけれど、下町は貧乏人であふれてた。おまけに錦糸町には、競馬の場外発売場があった。これって、状況的設定的にダメだろう!
あと、白いポストで「悪書追放」って置物もあった。こちらは図書館の前にある返却ポストみたいなやつで、正面に「子どもに見せられない本は、家庭に持って帰らずにこの中に入れてください」ってなことが書かれていた。ニキビづらの中学生には、あの中にはエロ本がぎっしり詰まっているなぁ・・・と連想して宝箱を見るように垂涎し、やきもきしてた。でも中を覗く勇気も度胸もなかった。これも入れてる人や回収しているところを見たことがない。
「悪書追放」の決めつけもすごいな。まだ「エログロナンセンス」なんて言い方が通用してた時代だ。
これは現在の錦糸町駅前 |
そして、都電やトロリーバスの通る道路を挟んで、楽天地があった。
みんな楽天地って言ってたけど、本当は江東楽天地って名前じゃなかったかな?
映画館がたくさんあって、今ならシネコンっていうのか。
江東と付いた館名がほとんどで、「江東劇場」「江東映画」「江東文化」「江東リッツ」なんてのがあったな。新小岩にも映画館はあったけど、ちょっと格が上がったってカンジだった。ここでは007や若大将なんかを見た。ん~中学生の頃だったな。
ピンク映画館(ポルノという呼び方はまだ定着してなかった)の前を通る時は、ドキドキしながら横目でポスターやスチール写真を頭に焼きつけた。
サウナやパチンコやレストラン、雀荘、キャバレー・・・なんかワケのわからない怪しい店たちがあちこちに詰め込まれていて、下町のラスベガスってなカッタマリだった。
地方から出てきて地道に働くアンちゃんがウマいこと吸い寄せられてたんだと思う。でも、これはこれで必要な重要な場所だったはず。都会で一人ぼっちの若者が、ユージローやアキラやサユリちゃんに夢中になって、輝く一日を過ごし、また日常へチェンジするバランスを養っていたんだろう。
お~ぉ スカしこんじゃいやがって !!! |
チンチ~ン! おぅゴメンよっ! ジャマするぜ! |
なくなったモノ なくしたモノ |
都バス(飛ばす)はのろくて、 トロリーバスは早いんだからネ! |
高校は、墨田区にある本所高校になった。
なったというのは、俺たちの頃・・・、え~と1968年だ。
あの学校群制度があり、葛飾区内の葛飾野高校と南葛飾高校がセットにされていたのだ。
学校群というのは、偏差値の似かよった3~4校をグループ(群)にして、合格者を振り分けていくランボーな選別方式で、プロ野球のドラフト制度みたいに希望した高校に行ける奴もいるし、希望外の高校に回されて涙を流す奴もいる。
ん~まっ、夢見る少年少女たちをひとまとめにして、福引きみたいに運不運のあらましを露骨に教えてくれて、人生のイイカゲンさを刷り込まさせてくれる一発ショーブの制度なのだった。
本所高校・葛飾野高校・南葛飾高校の3校は、62群と呼ばれていた。
で、俺の家から本所高校へは、ざっと3通りの通学ルートがあった。
1.京成ルート/京成バス「東上平井⇔京成四ツ木駅前」~京成線「四ツ木駅⇔押上駅」
2.総武線ルート①/総武線「新小岩駅⇔亀戸駅」~東武線「亀戸駅⇔曳舟駅」
3.総武線ルート②/総武線「新小岩駅⇔錦糸町駅」~都営バス「錦糸町駅前⇔押上駅前」
どのルートも、下車してから学校まで徒歩で15分~20分くらいだった。
結果的には、すべてのルートを使用したが、入学時に俺は迷わず3のルートを選んだ。
そして入学後、学校帰りの俺は、紙バッグに学生服をしまい込み、楽天地の映画館をさ迷う。封切館もあったが、狙うのは名画座系の映画館。3本立ては当り前、4本立てなんてのもあった。
「にっぽん昆虫記」の左幸子、「越後つついし親不知」の佐久間良子、「大奥秘物語」の小川知子たちに衝動と高ぶりを覚え、ヤコペッティの「世界残酷物語」に未知と無知の世界を知り、昭和30年代のB級映画と呼ばれた作品たちに過ぎゆく時代の未練を偲んだ。
一人ぼっちの放課後の授業は、奥が深く、自分で設問し解答しなくてはならなかった。
錦糸町は俺のもう一つの学校だったのだ。
《思えば遥課 じゅんぼう》
注・本人の希望により文字を大きくしました。
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