もう40年前になりますが、なぎらけんいちさんが「葛飾でバッタを見た」という唄を初めて歌ったコンサートがありました。それは葛飾バッタ村主催の「僕達は葛飾でバッタの大群を見た」/葛飾公会堂という1972年のコンサートで、この時のタイトルイメージから作られたのが「葛飾でバッタを見た」でした。
その後、葛飾バッタ村は、鵜沢章さん[オレンジ・カウンティ・ブラザース]の進言で葛飾をはずして「バッタ村」になりました。そしてコンサートを開いたり、「GRASS HOPPING」というガリ版刷りの小冊子を作ったりしていました。中心となって制作づくりをしていたのが、宇佐見和夫/うーちゃん・日川淳一/じゅんちゃん・高杉康史/やっちゃんでした。1974~5年頃です。
そして、じゅんちゃん(ギター・ボーカル)とやっちゃん(ギター・フラットマンドリン)は唄づくりを始め、ライブハウスやコンサートで演奏していました。
1978年になると小島康夫/OKOJI(フィドル)が加わり、「カントリードリンカーズ」~「にいたかドロップス」というバンド名で活動しますが、3年後の1981年にOKOJIは交通事故で亡くなってしまいました。
その後は、また二人で活動を続けていましたが、1982年に楽器は素人だけど、とにかく酒の飲めるうーちゃん(ベース)に白羽の矢を立てました。正味「バッタ村」の残党による再スタートです。この頃にバンド名が[すちゃらかしゃいにんぐ]になり、主に西荻窪の「のみ亭」や「ほびっと村」を中心に活動を広げていきます。演奏する曲は、主にじゅんちゃんが作詞・作曲し、バンドでアレンジしていくスタイルです。
それからは、渡辺一郎/なべいち(フラットマンドリン)、米谷俊樹/マイケル(バンジョー・ウォッシュボード)、黒田志乃/しのちゃん(アコーディオン)とメンバーは増え、関東から関西へとライブ活動を行なっていましたが、1987年にうーちゃん・なべいち・マイケル・しのちゃんの4名は就職や転勤で関西へ引っ越してしまいました。
その後は、また二人で活動を続けていましたが、1982年に楽器は素人だけど、とにかく酒の飲めるうーちゃん(ベース)に白羽の矢を立てました。正味「バッタ村」の残党による再スタートです。この頃にバンド名が[すちゃらかしゃいにんぐ]になり、主に西荻窪の「のみ亭」や「ほびっと村」を中心に活動を広げていきます。演奏する曲は、主にじゅんちゃんが作詞・作曲し、バンドでアレンジしていくスタイルです。
それからは、渡辺一郎/なべいち(フラットマンドリン)、米谷俊樹/マイケル(バンジョー・ウォッシュボード)、黒田志乃/しのちゃん(アコーディオン)とメンバーは増え、関東から関西へとライブ活動を行なっていましたが、1987年にうーちゃん・なべいち・マイケル・しのちゃんの4名は就職や転勤で関西へ引っ越してしまいました。
またまた二人になってしまったすちゃらかしゃいにんぐですが、しばらくして則本浩/ノリがパーカッション&サキソフォンで加入、さらに馬場順子/バジがボーカルで加入、90年代はこのメンバーにうーちゃんがスクランブル参加し活動を進めていきます。が、バジの転居、ノリの結婚~転居で、また・また・また、二人だけでの演奏活動となりました。
時代は2000年を越え、すちゃらかしゃいにんぐも結成から20余年・・・・・・、さてどうしたものかと思っていたところ、うーちゃんが東京に戻ってきたので、スタートメンバー3名での再々スタートとなったのです。
そして2010年からは、ゲストを招いたライブ活動『社員拡充百花繚乱作戦』を取り込み、すちゃらかにしゃいにんぐしているのであります。
ツカミドコロのない音楽性と根拠のない方向性を引きずりながら、進歩はないが変化していくバンド[すちゃらかしゃいにんぐ]
明日は明日、今夜は今夜、そして[すちゃらかしゃいにんぐ]は[すちゃらかしゃいにんぐ]なのです。
ごぶさたしてます。マイケル米谷です。
返信削除バンジョーはもう数年弾いてないので、じゅんちゃんの音源にスライドギターを合わせてみました♪
↓
http://www.geocities.jp/tuyunogoro/_gl_medias_/ramblinman.mp3
バンジョー弾けるよう練習しときますね。
8月みんなに会えるのを楽しみにしてます~♪