大阪の生野区舎利寺に住んでいたのが約8年、それ以前は実家(葛飾区亀有)を除けば
すべて大阪で阿波座四ツ橋摂津富田今里に住んだが、最高で今里の2年。ちょっと待て、
舎利寺に住む前は西荻のとんぼ館に2年いた。今里から西荻へは猫のらんくんとへびのい
まいちゃんとわしら夫婦で、地震で新幹線が止まった日に、近鉄で名古屋に出て、名古
屋からようやく動いた新幹線で東京に着いた。朝出て着いたのは夕方だった。
舎利寺から阿佐ヶ谷へは猫4匹カメ1匹で引っ越してきた。最初に部屋を探したのは
亀有の隣の綾瀬だった。不動産屋で猫4匹いるんですけどというと、皆面倒くさそう風に
なったが、足立区六木の一軒家、竹ノ塚のマンションなど結構広くてそこそこの値段の
物件を紹介してくれたが、通勤にはえらく不便だった。
丸くなった猫4匹 |
広がって並んだ猫4匹 |
見つめられるカメ1匹 |
再度西荻界隈と思ってはいたが、猫4匹では到底無理だろうとあきらめて、最初は足を
向けなかったが、ダメもととK不動産へ行ったら。近所のF不動産で阿佐ヶ谷の物件が出
たはずと紹介された。日当たりの良い二階建ての一軒家で駅からもまずまず、猫も大丈
夫だという事で、探せばあるもんだなあと心底感心した。
阿佐ヶ谷に初めて来たのは18歳の春だった。じゅんちゃんとの出会いのきっかけでも
あった、永嶋慎二という漫画家が住んでいて、彼の描く漫画の一部が阿佐ヶ谷を舞台に
していた。高校時代はいつもいつか行ってみようと思っていた。東京の東のはずれの亀
有から阿佐ヶ谷まではちょっとした小旅行なようなもので、思い立って電車に乗って来
てみたが、どこへ行くともなく駅のそばをうろうろして釣り堀をみて、コーヒー屋さん
の「ぽえむ」へ入っただけだった。永嶋さんの漫画に出てくるそのままの店で、ドキド
キしながらコーヒーを飲み漫画に出てくるそのままのマスターの顔をじっと見たりした。
ただ電車に乗って阿佐ヶ谷で降りて、喫茶店に入っただけなのに何かすごい達成感を感
じたものだった。
じゅんちゃんとはこの漫画で 知り合った |
中学生の頃、家の裏の方に本屋があるのを見つけた。何気なく覗くと、名前は知ってい
たが読んだ事のない漫画雑誌「ガロ」があった。思わず買って帰って読んでみると、中
身は全て「カムイ伝」だった。えっ~と思って一気に読んだ。そうか、あそこの本屋へ
行けば「ガロ」があるんだと思って、翌月行くとやはり1冊棚に置いてあった。読んで
みると入選作というのが最初にあって、三橋誠という人の漫画だった。地方から先輩を
頼って出てきたら、その先輩は泥棒をやっていて......という時代劇だった。話の筋も
絵柄もかわった漫画だなあと思って記憶に残った。翌月またその本屋へ行ったが「ガロ」
は無かった。そのかわり「COM」という雑誌を見つけた。石森章太郎が「ジュン」という
漫画を描いていて、面白そうなので買って帰って読んだ。中に「青春裁判」という読み
切りの漫画が載っていて、今まで読んだ事のない雰囲気を持った漫画だった。作者は永嶋
慎二。2カ月くらい経つとシリーズ黄色い涙「フ―テン」の連載が始まり、はまってしま
った。その頃コミックスとか銘打って新書版の漫画集が出て、永嶋慎二の「漫画家残酷
物語」が出ているのを知り、むさぼるように読んだ。時間を忘れて。
高校三年の時に押上駅の近くのお好み焼屋で先輩の女の人と後輩の男の子と3人で飲ん
でいた。そこの主人は浅草の芸人上がりでちょっと強面だが優しい目をしていて、おか
みさんは優しい人でアンコ巻きが上手く巻けないと代わりに作ってくれる人だった。
カウンターで飲んでいた二十代半ばの二人組といつの間にか話をしていた。下町でジャズ
喫茶と云えばこの三軒、平井の「レオ」日暮里「シャルマン」浅草「フラミンゴ」だろ。
わかったか?などと話をされ、「レオ」のマッチはな軸を引っ張ると火が付くんだぜ、で
帰れなくなったら泊めてくれたりするし。「フラミンゴ」は浅草だからこれから行こう
か?と誘われたが、そりゃ無理ですと断った。そのうちわしが永嶋慎二という漫画家が
大好きでという話をすると、片割れのいがぐり頭の人が「オレ、アシスタントやって
たんだよ」と、話しだし、「そんなことないでしょ」と取り合わなかったら怒りだした。
「なら、証拠見せるから家へ来い」としつこく言うので、しょうがないので皆で付いて
行った。10分くらいの所だった。家から持って出てきて見せてくれたのは蝶を丁寧に書いた
絵だった。
「どうだ、すごいだろ。これあげるよ」「じゃ、フラミンゴ行こう」「えっ、今から
無理だよ」「なんでだよ」と、小銭を叩きつけて怒ってしまった。なんとかもう一人の
人に間に入ってもらって帰って来た。
高校を出てからは阿佐ヶ谷に行く事はもうないだろうと思っていたら、大学で同じク
ラスになったS木が阿佐ヶ谷住んでいた。御茶ノ水のトリスバーで飲んで誰かの部屋に行く
という事を毎日のようにやっていて、当然阿佐ヶ谷のS木の部屋にも行った。深夜になん
とかビールまたはウイスキーホワイトを仕入れてぐちゃぐちゃ言いながら飲んだ。
一番街もスターロードも飲みに行った事は無かった。ランボーだけは何回か行った。
ある時、S木がこの間永嶋慎二だと思うけど歩いていたぞ。と話してくれた、そうか
阿佐ヶ谷をぶらぶらすれば会えるのかいいなあ、などと思ったりした。
以前にも書いたが今のすちゃらか三爺で「グラスホッピング」と云うミニコミ紙を作って
いた。何か企画がないかと考えていたら、写真を撮っていたが、それをやめて陶芸をやると
いうOさんが永嶋慎二と友人だという事がわかり、じゃあどこかに来てもらって話を聞くの
はどうだろうか。それを録音して「ダンさんの話」として文章にして載せようということに
なった。場所は両国のフォークロアセンターで、10人位が集まり永嶋さんがきて色々話をし
てくれた。別の部屋ではマッドブルースバンドがオイル缶のウオッシュタブベースとギター
で横須賀ブルースを唄っていた。まったりとした心地よい空間だった。
フォークロアセンターにて 初級問題 この写真にすちゃらか三爺の内の一人がいます それは三人の内だれでどこにいるでしょう? ヒント 右はじはダンさん(永嶋慎二さん)です。 |
フォークロアセンターにて 高等問題 この写真にすちゃらか三爺の内なんと三人全てがいます どこに誰がいるでしょう 知っている人は他の人に教えないように!!どうしてもわからなくて でも、どうしても知りたい人は三爺に聞いてください。 |
永嶋慎二の漫画の中では「若者たち」が好きだった。何に掲載されたのかは良く憶えてい
ないが、漫画アクションだったか?青林堂から単行本なったものを読んだ。そういえば長井
さんは阿佐ヶ谷駅で何度か見かけた事があって、誰それの漫画集だしてくださいと、勝手に
話しかけたがいつもニコニコ対応してくれた。おだやかなおじさんだった。「若者たち」は
若手漫画家の共同生活を描いた話しだったが、永嶋さんのアシスタントの方がモデルになっ
ていた。笑いあり涙あり怒りありほんわりしたところあり、ほろりとさせられたり結構何度
も読み返した。
NHKの銀河ドラマで森本レオが主演で放送された。主題歌は小椋佳が唄いき
れいなメロディーと小椋佳独特の歌詞でとてもすきだった。5~6年前には「黄色い涙」と
いう題で映画にもなった。主演は嵐だった?
大阪にいるときにランボーの堀さん、おみせのお母さんの訃報を聴いた。阿佐ヶ谷で他に
知っている店は無かった一番街にもスターロードにも。何年かぶりで阿佐ヶ谷に来たと思っ
たら住み始めていた。ある日新聞の訃報欄に永嶋さんが亡くなった事を見つけた。阿佐ヶ谷
の自宅を売り西荻窪に住んでいたのはやっちゃんに聞いた。翌年阿佐ヶ谷喫茶店「COBU」で
即売の展覧会があった。奥さんの小百合さんがいた。グラスホッピングの新しいのを持って
行くと「あっ、バッタ村の人ね」と言っていつもやさしく取りついでくれた。そう言えば
「漫画のおべんとう箱」も最近は読んでいない。今度の休み前は夜通し読もう。なんてたっ
て1400ページもあるから。永嶋さんご本人が一晩読んでも終わらない漫画の本が読みたかっ
たという思いを長井さんが形にしたんだと思う。
営業一課 すちゃらかうーたろう
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