去年の大晦日じゅんちゃんとユニット1年E組をやったが、その時私が歌った曲「君しあわせか」はこの歌集の最初の昭和39年度の6曲目に載っている。第1集昭和39年度から第5集昭和43年度各年度6曲づつ計30曲が収められている。
この歌集を高校に入った時に、新入生全員に配られた。けれども私ははその事をすっかり忘れていた。「君しあわせか」を歌おうと思ってコードをさがして、あとはじゅんちゃんに手伝ってもらおうと思い、じゅんちゃんの家について練習を始めようというときに、じゅんちゃんが奥の部屋からこの歌集を出してきた。
私がが入学する前の校長鈴木先生が、ある時二年生女子のバスに同乗して遠足に出かけた。その時バスの中で歌われた歌のいくつかは大人が聞いても顔を赤らめるようないやらしい歌詞のもので、それが生徒の口から出る事に非常におどろき考えさせられた。そして翌年に河西先生に「健康なロマンの高い歌声が学校に満ちるようにしてほしい」とお願いして来てもらい、地道にはじめた活動「「私たちの歌」だった。
生徒が作詞して作曲する。初期の頃は応募が少ない時もあり、先生が課題曲を準備した時もあった。また、同じ詩に二人の生徒が別々に曲をつけ両方が入選するという事も複数あった。1年生の時から3年生まで3年連続で作曲した曲が入選した人もいた。卒業してから応募して入選した人もいた。どの曲も若さと素直さとさわやかさを持ったものだった。なかにはその後プロになり「ウエディングベル」という曲を作詞作曲した人もいた。
実は私は本所高校では音楽部に籍を置いていた。コーラスが主体で「私たちの歌」と映画音楽やポピュラーソング、ゴスペルなどを歌っていた。大勢で歌うのは結構楽しいことだったが、初めての時はいい思い出はなかった。それは小学校6年生の時に、新しく入った1年生に校歌を聴かせるためのメンバーに自ら手を挙げて参加した時のことだった。希望者15人位で体育館の壇上に上がって歌い、指揮は担任の長谷川先生が行った。大きな声で歌っていたら先生がこちらをちらちら見る、なんでだろうと思いながら歌っていたが、途中で声を出さないで口をぱくぱくしたら、先生はこちらを見なくなった。歌を歌う為に壇上に上がったのに歌を歌わなかった。これが世渡り上手になる道か、なんてことは思わず、口をぱくぱくした時にこちらを向いていた顔をさっと前に向き変えた先生の態度が目に焼きついた。でも、中学では開き直ってデカイ声っで歌ったら玉置先生はそれなりの評価はしてくれた。声変わりの時に歌ったんで余計に目だったんだろうと気がついたのはそのころだった。
ある時大阪での仕事が軌道にのったので東京に戻ってきたら、新しいバイトが入っていた。Tが冗談のように「U沢くんはうさみさんと同じ高校だったんで採用したのです」と言った。「U沢くん私たちの歌って知っている?」「知りません」「生徒手帳に載ってなかった?」「あっ。そう言えばうさみさんの名前生徒手帳で見た事がありました」
私も「私たちの歌」何度か応募した。その結果3年生の時に作曲したものが入選した。作詞はその当時私の隣の席に座っていたY山が交際していた三浦郭美さんだった。曲名は「空に登ってみましょうか」応募最後の日に国語の担当で自ら作詞作曲もするM先生に譜面を渡した。先生は職員室に戻りながら所見で楽譜を読み河西先生の所にすぐに持って行ってくれた。先生はサビの部分を若干手直しをしてくれて入選曲とあいなった。サビの部分は自分でもひっかかっていた部分なので、手を加えてくれることによってすごく良くなったのが分かった。
音楽部がコーラスで入選曲を全校生徒に発表する前に、作曲者はみんなの前で歌わなければいけないという事になっていた。人前で歌うのに大勢でなら慣れているのに、一人では無理だよと思っていたら案の定右手がギターの弦に触れていない。声も出ない散々だった。2年生の時に男性コーラスで「嘘は罪」をやって、途中語りを入れるのは一人でも大丈夫だったが、一人で歌うのは全くだめだった。トラウマになったんじゃないかと思ったのは還暦パーティのとき、うまく歌おうと思っていないけど声も音程もだめ、当然演奏もだめ。情けなかった。あがり症とは思えない、緊張はするけど。
1年E組の時もまだダメだった。本当は「空に登ってみましょうか」を歌ってみたかったんだけど、何時になったらきちんと歌えるんだろう。
空に登ってみましょうか
あおく輝くあの空に
白いロープを持ってきて
ほら あの雲にひっかけて
どこまでも どこまでも
どこまでも どこまでも
すちゃらか・たまらん・うーたろう
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