はい、やっちゃんです。 オイラとじゅんちゃんとの出会いを書いてみます。
40年前、オイラが通ってた高校は、
どちらの駅からも同じくらいの距離だったけれど、
行きは立石、帰りは青砥というパターンが多かった。
なぜ帰りは青砥が多かったかというと、
青砥ミュージックというストリップ小屋があって、 オイラの下校時間あたりに、
洗面器を抱えた湯上りのお姉さんたちが小屋に入って行くのを、
ドキドキしながら眺めてたわけ。
しかし、ある時から帰りも立石から帰るようになっていた。
夏休みも終わり、新学期も始まり、チャリで帰宅して、
そして、高校卒業して自由になったオイラは、 テキトウにバイトして、
その頃、じゅんちゃん、うーちゃん、みどりさん、 みどりさんの彼氏の、
「京都のまちまで」という唄は、 ちょうどこんなことしてたころの唄。
さてと、あと、30年か40年したら、また回想文でも書くかぁ。
皆様も含めまして、末永きお付き合いを・・・・・!。㋳
「2012年、お!な姫たち④」
・ひいらぎ-ドーナツの穴
・藤田恵美-花束と猫
・つじあやの-Oh! SHIGOTO Special
・南壽あさ子-Landscape
・元ちとせ-語り継ぐこと
・手嶌葵-Miss AOI Bonjour
・中山うり-ホロホロ
化粧してない、スッピンのお姉さんのあとについて小屋の中へ・・ イヤイヤ・・。
しかし、ある時から帰りも立石から帰るようになっていた。
しかも、このころから自転車通学に変わっていった。
たしか、高校3年のころだと思うが、 立石にロック喫茶が出来たんだ。
「ぴいこ」というその店は、 自宅アパートを改造して作った店だった。
篠崎まつおさんというマスターと、 マスターのお母さんで切り盛りしていた。
家庭的で明るい喫茶店で、 ロック喫茶と云われるものにつきまとうような、
いわゆる不良っぽいイメージは全くなかった。
立石という土地柄か、 近所の町工場で働く音楽好きの職人のお兄さん達が、
COFEE飲んだり、めし喰ったりしてた。
そんな訳で、高校の帰りには「ぴいこ」で音楽聴いて、
CAFFE飲んで帰るという習慣がついてしまった訳。
ちなみに、オイラの朝は金町の「busybee] という24時間やってる喫茶店で、
「ぴいこ」で時々働いていた、 松本みどりさんというお姉さんと知り合い、
可愛がってもらってた。いろんな音楽を聴かせてくれた。 歌も唄っていて、
立石の、ジャニスか、マリアマルダーか、 ってなカンジの人だった。
そんなある日、「ぴいこ」に入ってきたお兄ちゃん。たしか、 Tシャツ、Gパン。
ウェイブのかかったふわっと長髪で、 店のドア開けてふらっと入ってきた。
オイラにはそれが、「なんて颯爽としてカッコいいんだろ」、 と思えて、
あぁ、早くオイラもあのくらいまで髪の毛長く伸ばしたいものだ・ ・・・、
などと思ってたら、「やっちゃん、 この人日川じゅんちゃんていって
歌唄ってる人なの」と、みどりさんから紹介された。
それから、大好きな音楽の話や、あれやこれやで盛り上がって、 そして、
「実は、ボク、 明日からヒッチハイクで日本一周の旅に出るんです」、
というと、じゅんちゃんの眼がさらに輝き、
「帰ってきたら、ぜひ旅の話を聞かせてよ」、 ということになった。
初対面としてはこんな感じで、次の日早起きだったので、
夏休みも終わり、新学期も始まり、チャリで帰宅して、
腰に手をあてて牛乳など飲んでると、鳴る電話がある。
そう、じゅんちゃんです。
高校3年生のオイラは、飲み屋に誘い出されて、
旅での経験や、音楽の話をたくさんすることに。ひぃ~、 ベロベロだぁ。
たしか、金町の焼き鳥屋の名店、「大淵」だった。
そんな呼び出しがその後も何度か続き、何度目のときだったか、
「バンドに入らないか?」、という話になった。
そのころ、じゅんちゃんが結成していたバンド、
「ダーティミアカントリーバンド」、 というお兄ちゃんたちのバンドに、
フラットマンドリンで参加することになった。うれしかった。
その年のうちに、「ぴいこ」、オイラの高校の文化祭、
上智大学学園祭、横浜のなんとか大学、なんとか学部の、
たしか、クリスマスパーティ、などで演奏をこなしていった。
そして、高校卒業して自由になったオイラは、
さらに、じゅんちゃんと飲む機会が増えていった。
別の流れで既に知り合っていたうーちゃんも含めて、
3人でよく飲んだものだった。
その時は、このメンツで一緒に演奏活動をすることになるなんて、
想像だに出来なかった。
その頃、じゅんちゃん、うーちゃん、みどりさん、
鵜沢章さん(オレンジカウンティブラザース)達は、
「葛飾バッタ村」(後にバッタ村)という、コンサートなどを、 企画実行したり、
「グラスホッピング」 というミニコミ作ったりしてるグループを作っていた。
なんとなくミニコミ作りのお手伝いなどをしているうちに、
オイラもめでたく構成員(村民?)となり、 じゅんちゃんの住んでる、
「京都のまちまで」という唄は、
じゅんちゃんと2人でヒッチハイクで、京都経由で岡山まで行き、
南に下って、下津井という港からフェリーに乗って、
瀬戸内海の「牛島」という島まで、旅したときの唄です。
京都から岡山へと旅立つ朝、「京都ほんやら洞」のそばの、
「中島食堂」という定食屋さんで朝飯を喰うことに。
その店は、 注文する時にレジでお金を前払いすることになっていた。
そして、こちらが注文したものを、レジのお姉さんが、
マイクで奥の厨房に伝えるシステムで、その時に、
注文する定食と、自分の名前を告げなくてはならない。
「〇✕定食ね」、「280円です、お名前は?」と聞かれて、
じゅんちゃんは、「サンダンスキッドです」って答えちゃった。
んでオイラ、「✕〇定食」、「はい、お名前は」、・・ん?・ 付き合うしかない・・。
「ブッチキャシディだがね」・・・・・・。
出来上がった定食を店員のお兄さんが、
「サンダンスさ~ん」、「ブッチさ~ん」、と運んでくる。
呼ぶほうもアホらしいと思ってると思うが、 呼ばれるほうだって実に恥ずかしい。
銀行強盗をする訳でもなく、明日に向かって何をも撃てぬまま、
その後、 マンションの建設現場に肉体労働で働きに来ていた西荻窪で、
ほびっと村の、樵(キコリ)と知り合う。 キコリがこれから開店するという、
「プラサード書店」の「内装工事を手伝ってよ」、ということで、 お手伝い。
さらに、「一緒に本屋をやろうよ」と誘われるまま、
新小岩から西荻窪に移り住んだ。1977年12月のことだった。 21歳の冬。
そして、オレカンの鵜沢章さんの紹介で、 フィドルの小島康夫と出会った。
すぐに意気投合して、じゅんちゃんと3人で演奏活動を始めた。
「カントリードリンカーズ」、「新高ドロップス」、「 プラサーズ」。
色んな名前で出てましたね。
その後のことは、すちゃらかブログの最初の方に書いてあります。
暇な時、サカノボッテ読んでみてね。
とにかく、じゅんちゃんと出会って、 何だかんだでもうすぐ40年。
40年経ってるのに、まだ、 じゅんちゃんのペースで酒を飲めないでいる。
でも、あのペースに付き合ったら死んじゃうよ。ホント。
生きてまだ唄っていたいので、酒のペースに付き合うのだけは、
この先も、どうかカンベンして下さい。
ホンデ、今後もよろしく遊んで下され。
さてと、あと、30年か40年したら、また回想文でも書くかぁ。
皆様も含めまして、末永きお付き合いを・・・・・!。㋳
開閉商事営業3課 やっちゃん
「2012年、お!な姫たち④」
・ひいらぎ-ドーナツの穴
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