高校になんか行きたくなかった。
学校から逃れたいというのもあったけど、親戚とか近所とかごったごったしたものを拒絶
学校から逃れたいというのもあったけど、
したかった。
俺にさわるな! って、ふうに生きていた。
優しくされればされるほど、自分ではコントロールできないものが、自分の意志とは違う
方角に自分を運んでしまう。
ひねくれとか天邪鬼とかデキソコナイとか、そんな大甘ったれ屋で15 年目の冬を乗り越え
た。
14歳12月、中学3年の時。
父親が死んで、俺は働く!という選択しか考えられなかった。
世の中の事はわからなかったけど、今この家で俺がやらなくてはいけないってことはわか
ってた。
母親が泣き、親戚の連中が毎晩やってきて、おんなじ将来設計と損得の公式を何べんも聞
かされた。二人の弟が俺の代わりに泣いた。
俺は・・・結局、高校へ行くことになった。
忌わしき学校群。何にも考えてない大人たちが作った何にもならない制度。
で、選んだのは62群。振り分けられたのは京成線/都営地下鉄線押上駅から歩いて10
分ほどの墨田区本所高校。その当時はサエナイ街だったのに、最近じゃスカイツリーのお
かげでスカシタ街になっている。ふんっ!
1年E組が俺のクラスだった。新学期が始まるとすぐ、朝のホームルームを使って毎日2
~3人づつ自己紹介をさせられた。
俺の番がきて夢中になってるモノを3つ話した。野球(俺は野球少年だったのだ)と音楽
(もうギターは弾いていた)と漫画(描くのも読むのも)。
そして漫画のところで、今一番シビレテいるのは永島慎二だと一方的に喋って話を終えた。
1時間目の授業が化学のため、実験室へ移動してた時、急に話しかけられた。
「君、永島慎二が好きなの? 僕も大好きなんだ。」
突然の侵入攻撃に無防備だった俺はタジロイだ。
「どんな作品が好きなの? 僕は・・・・・・。あれもいいよね。それから・・・・・・。」
彼は静かな語り口調で、熱く永島慎二を語っていた。不思議と拒絶する気にはならなかっ
た。俺も自分のベスト3を伝えた。やんわりと距離が縮まっていった。
実験室に着く頃、俺たちは最新作「拳銃物語」の評価を終えていた。
宇佐見和夫(うーちゃん)との付き合いはこうして始まった。
2年になってクラスは違ったが、漫画や音楽の好きと嫌いが一緒だったので、教えたり教
えられたり、時々会って話した。
放課後の音楽室で、俺のデキソコナイの新曲をいつでも真正面から聴いてくれた。そして
ココがいい。ココがだめだ。とアドバイスしてくれた。そうして俺は曲づくりってヤツを
覚えていった。
高校の終わり頃になると、俺は時々しか学校に行かなくなったので、あまり会うこともな
くなっていった。
うーちゃんも受験で忙しかったのかなぁ・・・?
でも途切れないように気にしてた。
高校を卒業して、翌年の1972年春、高校時代の友人たちで美術方面に進んだグループ
と暇で唄がそこそこ歌える奴らとでコンサートをやろうということになった。葛飾ロック
&フォーク村結成広告コンサートという長ったらしい名前がつけられた。サブタイトルが
いるということになり、「僕達は葛飾でバッタの大群を見た!」というのに決まった。命名
者はうーちゃん。
会場は今は無き葛飾公会堂(現在はシンフォニーホールという名で建て替えられた)。手分
けして出演者の交渉と入場券の押し売りに走った。この時、なぎらけんいちを呼ばなかっ
たら、当然あの唄は生まれていない。
その年の暮れ、金町にアパートを借りた。
常磐線沿線の喫茶店が情報室になった。若さにまかせた話が、俺たちを浮かれさせていた。
亀有の「B」や金町の「C」。2店とも今はない。
バイトも一緒にやった。競馬の指定席券を買うための並び屋(金曜日の夜から土曜の朝ま
でずっと並んでるんだ。競馬好きのオヤジ達の代わりに。)、展示会の会場づくり(これも
夜中に作業。広~いフロアで只々トンカチで釘を打つ。)、工場の屋根のペンキ剥がし(こ
れは真夏の炎天下。脱水と屋根の灼熱照り返し。)・・・。
金が入るとそのまま呑み屋に向かった。明日のことは明日考えて、今日やりたいことだけ
に夢中になっていた。
この時期、俺は一人で歌っていたが、ロックバンドがやりたくて、うーちゃんの中学校時
代の知り合いSを紹介してもらった。友達が友達を呼んで、五人編成になり2年ぐらい続
いた。毎日唄を作って、毎日歌ってた。
ライブハウス・学園祭・野外コンサート・・・、話があればどこでも歌った。俺を除いて
みんな大学生だったため、卒業と就職のため一旦解散しようということになった。最後の
演奏は、葛飾公会堂だった。
葛飾ロック&フォーク村は、その後葛飾バッタ村に変わり、さらにバッタ村となりコンサ
ートやミニコミ誌を発行、年2回ほどのペースでコンサートを開催しながら、1980年
頃に自然解散となった。
時代は変わり、俺の住む場所も変わっていった。
新小岩・立石・北方・・・、俺が動き回る場所にはいつもうーちゃんがいた。
俺の唄を一番長く聴いている男だ。
あの日、高校の廊下で話しかけられてから、10年以上がたっていた。
高校進学という道を選ばなかったら、俺はどうなっていただろう。
いいや、考えてもしょーがない。人生はなるようになっていくだけだ。
高校3年の文化祭で、俺とうーちゃんは即席2人バンドを組んで岡林やジャックスを歌っ
た。20分くらいのデビューだったけど、おれはめちゃめちゃコーフンしてた。うーちゃ
んはいつもどおり冷めていた。
その夜、家への帰り道。煙草をふかしながら俺は思った。また、こんな感じでうーちゃん
と演奏することがあるかもしれないナ。あるといいな・・・。
その予感は、12年後の1982年すちゃらかしゃいにんぐ結成で現実となっていく。
《営業2課 じゅんぼう》
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