2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2015年2月22日日曜日

なだらかな丘を越えてやってくる唄

2月21日(土)は、西荻窪のみ亭で「日川淳一/藤井貴子 二人ライブ」だった。
「すちゃらかしゃいにんぐ+藤井貴子」は一度あるが、「日川淳一/藤井貴子」は初めてだ。
 
二人でやる曲のリハーサルのため、17時に集合し、音出しをする。
曲数は3曲。
まず、古いフォークソング(?)の「DINK’S SONG」のリハから始めた。藤井さんが日本語の詩をつけて、半分原詩(英語)で半分日本語で構成されている。
サビの部分に俺がハープとコーラスを入れさせてもらう。だが、こういう仕掛けとかごまかしとかのない唄は、もろに歌唱力ってヤツが表れてしまう。藤井さんの横顔からものすごい圧を感じる。ブルルッ!
続いて「MISS THE MISSISSIPPI AND YOU」。
BILL HALLEY の作品で、俺が始めて聴いたのはアーロ・ガスリーの「LAST BROKKRIN COWBOY」だった。それから、ジミー・ロジャースやエミル―・ハリスの歌ってるのも知った。どれもみんな素晴らしい。作品が良くて、歌と演奏が良くて・・・、こういうのを非の打ちどころが無い、っていうんだな。
で、二人演奏のリハなんだが、藤井貴子さんは打ちどころが無い。のだが、俺が打たれてばっかりなのだ。
基本的に藤井貴子さんが、メインをとって(ト―ゼンだけど・・・)、俺がバックに回ることになってる。
のだが、サビのコーラスがふにゃふにゃで情けない。あぁ、なさけない。
イイカゲンにやってきた男が、一直線に取り組む女性にひたすら併走していくってカンジで、なんとか歌い終わる。あきらかに藤井さんから憐れみと徒労感の薄いヤツが俺に向けられる。
 
最後に、「狼子羊」の確認をする。自分の作品なのだが、トホホなことに本日は俺のモノではなくなっている。
デュエット形式で交代で歌っていく。おしまいのキメがうまくいかない。何回か流して、狼のごとき藤井さんから、やっとこさでOKをいただく。
 
こうして、18時30分にリハーサルは終了。
ライブ開始まで、ちょっと時間があるので、正真正銘の「反省会・オン針のムシロ」W田屋へ連行される。
力のない乾杯。
もはやあきらめ顔の藤井さんから「だいじょうぶ! いつもどおりにやればいいのよ」と暗示をかけていただく。煮込み・カキフライ・タマゴ焼き・黒ビール・・・、大好物が並ぶけど、ため息が邪魔しての喉に腹に入っていかない。
あぁ・・・ギターの無い国に行きたい・・・
 
で、19時30分を10分ほど過ぎて始まったライブは、俺の先行で
  
   1.FEELIN’ LIKE A GAMBLAR
   2.秋のうた
   3.I WANNA BE FREE
   4.クロージング デイ
   5.ここは僕の部屋ですよ
   6.京都ブルース
   7.川向こうのあの子
   8.君の中に
 
と、店内の「早く終わんねぇーかな!」の願いと視線も無視して、8曲をがなり立て、なんとか歌い終わる。正直者のお客さんが笑顔と安堵の拍手をくれる。「やっと終わったぞ」のイミだろう。でも、女子たちは喜んでくれた。「よかった。楽しかった!」おぉ、ウソでもウレシイ。あああありがとう。なおちゃん!
 
休憩のあと、藤井貴子さんが登場し、店内がやっと正常に流れ始める。
  1.遠雷
から、ゆっくり始まった。
大切な人を失った寂寥の思いを切々と、語りかけるように彼女は歌う。
飾りのない真っ直ぐな言葉が心に染み込んでくる。
マウンテン・ダルシマーとギターを持ち替え、曲ごとにチューニングを調整しながら
  2.新しい家
  3.サリーナの宝
店内に良質な波長が揺らぎ始め、みんなの呼吸が同一のリズムになっていく。
藤井さんの歌声は、なだらかな丘を越えてやってくるようだ。
ゆるやかな旋律をマウンテン・ダルシマーが紡ぎ出していく。
  4.テディ オニール
   5.レイホオヘノ
   6.悲しい風
   7.突風と太陽の下
   8.ようこそ
藤井さんの時間が大拍手で終わって、第3部(?)の二人演奏になる。
 
  1.MISS THE MISSISSIPPI AND YOU
藤井さんが、ポイントポイントで引っ張っていってくれる。
ん? なんだかいいぞ・・・
藤井さんの声がはっきりと聴こえ、自分の位置がわかる。バランスってヤツが見える。
   2.狼子羊
も、すんなりと並んで走り抜け、最後の
  3.DINK’S SONG
静かでいて、力強く歌う藤井さんのバックで、ハープのフレーズを出していく。
エンディングもきれいにキマリ、みなさんから大きな拍手をいただいて、ライブはこちらもあちらも大満足で終了した。
あぁ、ギターのある国にいて、よかった!!!
 

1曲めが終わって・・・撮影=KAMOCHAN

DINK’S SONG 間奏中撮影=KAMOCHAN


《営業2課 じゅんぼう》

2015年2月15日日曜日

本所高校 私たちの歌

私たちの歌 私たちの作詞作曲集 東京都立本所高等学校 という冊子体の歌集がある。
去年の大晦日じゅんちゃんとユニット1年E組をやったが、その時私が歌った曲「君しあわせか」はこの歌集の最初の昭和39年度の6曲目に載っている。第1集昭和39年度から第5集昭和43年度各年度6曲づつ計30曲が収められている。



この歌集を高校に入った時に、新入生全員に配られた。けれども私ははその事をすっかり忘れていた。「君しあわせか」を歌おうと思ってコードをさがして、あとはじゅんちゃんに手伝ってもらおうと思い、じゅんちゃんの家について練習を始めようというときに、じゅんちゃんが奥の部屋からこの歌集を出してきた。

私がが入学する前の校長鈴木先生が、ある時二年生女子のバスに同乗して遠足に出かけた。その時バスの中で歌われた歌のいくつかは大人が聞いても顔を赤らめるようないやらしい歌詞のもので、それが生徒の口から出る事に非常におどろき考えさせられた。そして翌年に河西先生に「健康なロマンの高い歌声が学校に満ちるようにしてほしい」とお願いして来てもらい、地道にはじめた活動「「私たちの歌」だった。

生徒が作詞して作曲する。初期の頃は応募が少ない時もあり、先生が課題曲を準備した時もあった。また、同じ詩に二人の生徒が別々に曲をつけ両方が入選するという事も複数あった。1年生の時から3年生まで3年連続で作曲した曲が入選した人もいた。卒業してから応募して入選した人もいた。どの曲も若さと素直さとさわやかさを持ったものだった。なかにはその後プロになり「ウエディングベル」という曲を作詞作曲した人もいた。

実は私は本所高校では音楽部に籍を置いていた。コーラスが主体で「私たちの歌」と映画音楽やポピュラーソング、ゴスペルなどを歌っていた。大勢で歌うのは結構楽しいことだったが、初めての時はいい思い出はなかった。それは小学校6年生の時に、新しく入った1年生に校歌を聴かせるためのメンバーに自ら手を挙げて参加した時のことだった。希望者15人位で体育館の壇上に上がって歌い、指揮は担任の長谷川先生が行った。大きな声で歌っていたら先生がこちらをちらちら見る、なんでだろうと思いながら歌っていたが、途中で声を出さないで口をぱくぱくしたら、先生はこちらを見なくなった。歌を歌う為に壇上に上がったのに歌を歌わなかった。これが世渡り上手になる道か、なんてことは思わず、口をぱくぱくした時にこちらを向いていた顔をさっと前に向き変えた先生の態度が目に焼きついた。でも、中学では開き直ってデカイ声っで歌ったら玉置先生はそれなりの評価はしてくれた。声変わりの時に歌ったんで余計に目だったんだろうと気がついたのはそのころだった。

ある時大阪での仕事が軌道にのったので東京に戻ってきたら、新しいバイトが入っていた。Tが冗談のように「U沢くんはうさみさんと同じ高校だったんで採用したのです」と言った。「U沢くん私たちの歌って知っている?」「知りません」「生徒手帳に載ってなかった?」「あっ。そう言えばうさみさんの名前生徒手帳で見た事がありました」

私も「私たちの歌」何度か応募した。その結果3年生の時に作曲したものが入選した。作詞はその当時私の隣の席に座っていたY山が交際していた三浦郭美さんだった。曲名は「空に登ってみましょうか」応募最後の日に国語の担当で自ら作詞作曲もするM先生に譜面を渡した。先生は職員室に戻りながら所見で楽譜を読み河西先生の所にすぐに持って行ってくれた。先生はサビの部分を若干手直しをしてくれて入選曲とあいなった。サビの部分は自分でもひっかかっていた部分なので、手を加えてくれることによってすごく良くなったのが分かった。

音楽部がコーラスで入選曲を全校生徒に発表する前に、作曲者はみんなの前で歌わなければいけないという事になっていた。人前で歌うのに大勢でなら慣れているのに、一人では無理だよと思っていたら案の定右手がギターの弦に触れていない。声も出ない散々だった。2年生の時に男性コーラスで「嘘は罪」をやって、途中語りを入れるのは一人でも大丈夫だったが、一人で歌うのは全くだめだった。トラウマになったんじゃないかと思ったのは還暦パーティのとき、うまく歌おうと思っていないけど声も音程もだめ、当然演奏もだめ。情けなかった。あがり症とは思えない、緊張はするけど。
1年E組の時もまだダメだった。本当は「空に登ってみましょうか」を歌ってみたかったんだけど、何時になったらきちんと歌えるんだろう。

      空に登ってみましょうか 
      あおく輝くあの空に
      白いロープを持ってきて 
      ほら あの雲にひっかけて
      どこまでも どこまでも 
      どこまでも どこまでも


すちゃらか・たまらん・うーたろう

2015年2月7日土曜日

告知どすえ

藤井貴子さんという女性がいる。
いろんな才能を持っているステキな女性なのだ。
ト―ゼンいろんな顔があるワケで、「画家」と「作詞&作曲家」と「シンガー」と「ギター&マウンテン・ダルシマー奏者」と・・・、俺が知ってるのは以上だが、本人は言わないまだまだ違う顔を隠し持っているのかもしれない。

京都で育ち、京ことばが時々交じる嫋やかなお人柄ではあるのだが、ジョニ・ミッチェルを敬愛し、好きなモノにはまっすぐで一途に行動していく、自立としなやさを混在させた魅力たっぷりの方だ。
おっと! 迂闊だった、すちゃらかしゃいにんぐのCDジャケットデザインもやっていただき、さらに歌やコーラスでも参加していただいたのだった。
というワケで、頭が上がらないお人なのだよ。

そんで、こんど「のみ亭」で、「日川淳一と藤井貴子/二人ライブ」ってのをやることにした。
彼女は、CDを3枚作っていて、どのCDも一度聴いたら忘れられないすばらしい唄ばかりだ。
まっ、こういう評っていうのは、何千行も文を重ねても一度聴いたらぶっ飛んじゃうコトになっている。
だから書かない。
聴いてほしい。

垂涎の3枚

あと、マウンテン・ダルシマーって楽器、知らない人も多いと思うけど、彼女のブログに演奏している写真があるから、見てみて!
形はユニークだけど、とっても素朴でやさしい音がするんだ。
彼女の声に合っていると思う。
ちょいと調べてみたら、ヨーロッパの箱型弦楽器(チター族)がアメリカにもちこまれ、アパラチア山脈あたりで親しまれた楽器だそうだ。
ハンマー・ダルシマーってのもあって兄弟なのかナって思ってたら、こいつとは違うんだって。
マウンテン・ダルシマーはピックで弾いたりするけど、ハンマーの方は100本ほどの弦が張ってあり、ハンマーで叩いて音を出す(ハンマーといっても先がちょっと膨らんだ箸のようなもの)。
もともとは、ペルシャのサントゥールが伝わったもの。 そしてさらに東に伝えられ中国では揚琴(Yang-Qin)になったって書いてあった。
ひと言で分けると、マウンテン・ダルシマーは撥弦楽器で、ハンマー・ダルシマーは打弦楽器ってのも書いてあった。
「dulcimer」という語の由来はラテン語であり、「甘美な旋律」を意味する「dulcis melos」だそうだ。
ふ~ん、なるほー!

ライブの中身は、俺が歌って、彼女が歌って、最後に二人で3曲くらい一緒にやる予定だ。
一緒にやる曲は決めているけど、それはヒ・ミ・ツ。
言わない方がいいし、聞かない方がいいだろう?
彼女はいつもどおり、伸びのある直球主体でくるだろうから、俺は変化球で組み立てて持ち応えるコトにしようかね。
とりあえずは、しょんべんカーブとカクシ球を練習しておくか。ヘヘッ。
まっ、俺がぶち壊さなけば、いいライブになるはずだ。

2月21日(土) 19時30分
 チャージは、投げ銭システム
 食べ物は、店外から持ち込みシステム(無料)
 飲み物は、店内で、頼み込みシステム(有料)
 その他は、その場で考えていくシステム

寒い日が続くけど、春の陽だまりのような彼女の歌を聴きながら、ほっこりしておくれやす。

製作者=藤井貴子



《営業2課 じゅんぼう》

2015年2月5日木曜日

1/24 すちゃらかライブ報告

うーちゃんから、ライブレポート書くように云われたが、
忙しかったりでなかなか書けずに、時間ばかり過ぎてしまった。
今日、少し時間がとれたので、曲名だけでも報告しておこうと思いました。
Y老の瀧ミーティングを終えて7時40分ころスタートしました。
なお、当日は、開閉商事社長のTるみちゃんが、
割烹着を着て、1日ママになりました。


                              Photo by Kamochan


① We Are The すちゃらかしゃいにんぐ
② 夕焼け景色の彼方から
③ 京都の街まで
④ ホーボーとはいえ
⑤ ケンタッキーフライダースソング(40年ぶりに演奏)
⑥ りゅうちゃん(じゅんちゃんと知り合ったころの名曲)
⑦ ラストカウボーイソング


                                                 Photo by Kamochan


ここで休憩が入ります。
後半は・・・、

⑧ BACK STREET JUG BAND SHOW
⑨ 温泉旅行
⑩ ずっとこのまま
⑪ クマさん家に行くのさ(昨秋山梨のクマさん家に行った時こと、新曲)
⑫ HONKY TONK HERO
⑬ サイフはカラッポ


                                                 Photo by Kamochan

アンコールで

⑭ HOBO BLUES
⑮ にんじん(友部正人の名曲を、じゅんちゃんとオラが交互に歌った)

今回は、コーラスのパートが多かった。
ママ、Tるみちゃん、遠くから来ていただいた、N村Kんちゃん、
特にありがとうございました。


                                                Photo by Kamochan


1月に入って、ライブしたことのある、京都の老舗「ほんやら洞」が燃えてしまい、
さらに、2人の友人があの世へ旅立ち、喪失感でいっぱいになってたら、
また1人入院して集中治療室送り、やっと一般に移ってちょっと安心したけど、
なんだかなぁ、落ちてばっかりやぁ・・・、な正月でした。

開閉商事営業3課 やっちゃん


「2014、お!な姫たち⑦」

・水木ノアAND認知-Seven Bridge
・Quikion-Waltz Nostalgi
・黒色すみれ-Cosmopolitan

















「2015、お!な姫たち①」
・黒木渚-虎視眈々と淡々と
・Biscotti-33


2015年2月1日日曜日

おまえなんか、とっとと帰れ!

いつも、まっすぐ授業にはでないで、駅の近くの喫茶店に寄り道して、そこからスタンドバーに行きそのまま誰かの部屋に行って、酒を飲み昼過ぎまで寝てから、翌日も駅の近くの喫茶店に行き誰かが来るのを待って何人か集まると、またいつものようにスタンドバーへ出かけた。




最初は授業がどこで行われているのかも知らないで、違う学部の事務所の前に行って何もわからず途方に暮れていた。わからない自分を反省しないで、わからないからきちんと出ないで良いんだと自分勝手に決め付けてバイト先の友人と飲み屋に行っていた。

ある時自分が勝手に事務所の場所を間違えているのに気づき、その後はそれなりに授業に出るようにしたのだけど、それまで一カ月ほど出ていなかった結果、今さらわからない事が多すぎた。

初めて話をしたのはS木とS水で、たまたま座った席が近くて、なんとなく声をかけたら返事をしてくれた。それでもいつの間にか一緒によく話したりしていたのは川崎の研磨工場のせがれだった。鳥打帽に穴のあいた黒い傘をきちんと縛って腕に下げていた。足元はワークブーツだった。メガネの奥は結構温かみのある黒目がちだった。彼はあまり酒は飲まなかったが、なんやかやと独特の声と話し方で気になる人だった。ある時から急に授業に出てこなくなり、その界隈にも姿を見せなくなった。彼の家よりもっと南の方からきた男が彼をさがしに来たけれど、盛り場の喧騒とまばゆい灯りの中、北原ミレイの唄声を小脇に抱え宙点に蘇る力道山の空手チョップに喝采をおくり、彼は今も変わらずにいるだろう。

周りに知っている連中がいなくなってしまった。大体4年か5年たてば知っている人はいなくなる。ある時サングラスがトレードマークのI村から連絡があった。仕事を手伝って欲しいというj事だった。I村は途中から全く授業には出なくなり、飲み屋にはそれなりに顔を出してはいたが、仕事が結構遅くまでかかる事が多くてそんなに頻繁に合う事は無かった。土曜日だったか日曜日だったかを使いエロまんが週刊誌の増刊号を作るしごとだった。グラビアの写真は昔取ったのを使いまわす事にして、パラフィン紙を敷いて上からどこの部分を使うか設定する。やり方を教わって残りをやっつけるが、途中でダメ押しが出る。あまり上とかに空間が多いと、小さく見えるからギリギリまでもって行くか少しキレる位までにしてやった方がいいから。と、言われるそう言われるとその方がいい。その後ページの横の枠外の縦の入れる文章を書く。まんがの内容に合わせて美少女姉妹が~などと考えるのだがこれは難しい。I村には完全にかなわない。おっとその前にネームを貼る。ほとんど終わったらついでに投稿文も書く。しかしこれはえらいめんどくさい。文面を変えないといけないのがもう大変で。そう言えばこの時から10年近くたって外苑でバイトしてた時にBC関係の一冊の中で、愛読者の投稿ページに出てくる名前が全てその時バイトしていた外苑の店の関係者だった時はビックリした。という位担当者が書いているのが現状なのかと思ってしまう。

I村はそこのT山企画と云う編集プロダクションに学校へ入ってすぐに採用されて、同じ駅だったので仕事が忙しくなるとき以外は、授業もそれなりに出つつ、酒も付き合いつつと云うふうにしていたのだが、ある時仕事を辞めると言いだし、代わりにS山を社員で入れてT山企画を辞めた。それでも増刊号を作る仕事は別途受けていて、日曜日とか仕事をやっていた。それで時々手伝ってくれと電話が入って来たのだが、日曜だけで終わらないと事務所に月曜日の夕方に行ったりもした、するとS山がI村先生どうですかあ?などと嬉しいそうにねちねちと声をかけ、こちらの方にもおまえらなあこの投稿誰が校正したんだよお。などと云う。S山は口は非常に悪いのだが根は非常に寂しがりやでアパートに泊りに来いと言われて断るのにすごく困った事が何度もあった。おまえなあエロまんがってのはこうするんだよ。と云われてページを拡げて見せられた時はビックリした。さすがだと思った。その仕事のせいで社長のT山さんは何度か神田署に行ったらしい。

突然I村から電話があった。今亀有駅にいるという。駅前の喫茶店で待つように言って出かける。何事かと思うって聞いてみると、松戸にいる兄さんの所へ遊びに行こうと思うんだけど一人じゃ心もとないので一緒に行って欲しいとと云われた。一緒に行ったのはいいけれど、兄さんはまだ会社から戻っていないので、奥さんにことわり車を借りてドライブに行った。I村の田舎は山梨なので千葉県の事など何も知らない、わしの方も車なんかに乗った事はほとんどないのでどこに行ったらいいかわからず、適当にそこいらをウロウロして、いい時間になった頃あいにマンションに戻った。兄さんはすでに帰っていた。奥さんは腕によりをかけて海老とか肉とかの料理を作ってくれていた。男の子も3才くらいのかわいい盛り、兄さんは一流商事会社勤め、奥さんは料理上手かあ。なんか一人じゃ行きにくくてわしをさそったのかなあ、などと思ったりしている間に兄さんと将棋を指したり子供と遊んだり、なんも考えんと酒にもてあそばれてその場の状況に流されてしまっている。そんなんだからわしをさそったのかな。

I村とはゴールデン街のK路でよく飲んだ。ある時、I村が言いだした。「おれよお、踊り子がすきなんだよなあ。いいよなあ、踊り子って」 「I村さあ、おれ....」「おまえなんか、とっとと帰れ!」

ある時駅前の書店に入って、文庫本の背表紙を読んでいた。「出版業界最底辺日記」S山の日記を別の人が編集したものだった。途中にI村の事が書いてあった。高円寺でグラビアの子を交えて忘年会をやった。あるパーティであるやつがS山殴るというのを聞いてI村と一緒にゴールデン街のルカンまで逃げて来た。などと。そろそろI村とも会いたい。けれど連絡先がわからないK路も今はやっていない。S山に電話して聞いてみるか。「S山先生、昔懐かしいうさ公ですが、I村の連絡先教えて下さいませんか?」「なにい?うさ公だとお」


営業一課  すちゃらか・たまらん・うーたろう