2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2013年3月30日土曜日

すちゃらかんミトコンドリア《その3/高杉康史 日川淳一に出逢う》

はい、やっちゃんです。オイラとじゅんちゃんとの出会いを書いてみます。

40年前、オイラが通ってた高校は、京成線の青砥と立石の間にあって、
どちらの駅からも同じくらいの距離だったけれど、
行きは立石、帰りは青砥というパターンが多かった。
なぜ帰りは青砥が多かったかというと、
青砥ミュージックというストリップ小屋があって、オイラの下校時間あたりに、
洗面器を抱えた湯上りのお姉さんたちが小屋に入って行くのを、
ドキドキしながら眺めてたわけ。
化粧してない、スッピンのお姉さんのあとについて小屋の中へ・・イヤイヤ・・。

しかし、ある時から帰りも立石から帰るようになっていた。
しかも、このころから自転車通学に変わっていった。
たしか、高校3年のころだと思うが、立石にロック喫茶が出来たんだ。
「ぴいこ」というその店は、自宅アパートを改造して作った店だった。
篠崎まつおさんというマスターと、マスターのお母さんで切り盛りしていた。
家庭的で明るい喫茶店で、ロック喫茶と云われるものにつきまとうような、
いわゆる不良っぽいイメージは全くなかった。
立石という土地柄か、近所の町工場で働く音楽好きの職人のお兄さん達が、
COFEE飲んだり、めし喰ったりしてた。
そんな訳で、高校の帰りには「ぴいこ」で音楽聴いて、
CAFFE飲んで帰るという習慣がついてしまった訳。
ちなみに、オイラの朝は金町の「busybee]という24時間やってる喫茶店で、
モーニングCOFFE飲むことから始まって、それから高校行ってましたがね。


ぴいこの記事-20050713-東京新聞

「ぴいこ」で時々働いていた、松本みどりさんというお姉さんと知り合い、
可愛がってもらってた。いろんな音楽を聴かせてくれた。歌も唄っていて、
立石の、ジャニスか、マリアマルダーか、ってなカンジの人だった。
そんなある日、「ぴいこ」に入ってきたお兄ちゃん。たしか、Tシャツ、Gパン。
ウェイブのかかったふわっと長髪で、店のドア開けてふらっと入ってきた。
オイラにはそれが、「なんて颯爽としてカッコいいんだろ」、と思えて、
あぁ、早くオイラもあのくらいまで髪の毛長く伸ばしたいものだ・・・・、
などと思ってたら、「やっちゃん、この人日川じゅんちゃんていって
歌唄ってる人なの」と、みどりさんから紹介された。
それから、大好きな音楽の話や、あれやこれやで盛り上がって、そして、
「実は、ボク、明日からヒッチハイクで日本一周の旅に出るんです」、
というと、じゅんちゃんの眼がさらに輝き、
「帰ってきたら、ぜひ旅の話を聞かせてよ」、ということになった。
初対面としてはこんな感じで、次の日早起きだったので、
帰って旅の荷造りをした。


ぴいこで遊ぶオイラとじゅんちゃん 


夏休みも終わり、新学期も始まり、チャリで帰宅して、
腰に手をあてて牛乳など飲んでると、鳴る電話がある。
そう、じゅんちゃんです。
高校3年生のオイラは、飲み屋に誘い出されて、
旅での経験や、音楽の話をたくさんすることに。ひぃ~、ベロベロだぁ。
たしか、金町の焼き鳥屋の名店、「大淵」だった。
そんな呼び出しがその後も何度か続き、何度目のときだったか、
「バンドに入らないか?」、という話になった。
そのころ、じゅんちゃんが結成していたバンド、
「ダーティミアカントリーバンド」、というお兄ちゃんたちのバンドに、
フラットマンドリンで参加することになった。うれしかった。
その年のうちに、「ぴいこ」、オイラの高校の文化祭、
上智大学学園祭、横浜のなんとか大学、なんとか学部の、
たしか、クリスマスパーティ、などで演奏をこなしていった。

そして、高校卒業して自由になったオイラは、テキトウにバイトして、
さらに、じゅんちゃんと飲む機会が増えていった。
別の流れで既に知り合っていたうーちゃんも含めて、
3人でよく飲んだものだった。
その時は、このメンツで一緒に演奏活動をすることになるなんて、
想像だに出来なかった。

その頃、じゅんちゃん、うーちゃん、みどりさん、みどりさんの彼氏の、
鵜沢章さん(オレンジカウンティブラザース)達は、
「葛飾バッタ村」(後にバッタ村)という、コンサートなどを、企画実行したり、
「グラスホッピング」というミニコミ作ったりしてるグループを作っていた。
なんとなくミニコミ作りのお手伝いなどをしているうちに、
オイラもめでたく構成員(村民?)となり、じゅんちゃんの住んでる、
新小岩へと引越したのでした。20歳の春です。


バッタ村コンサート-オレンジカウンティブラザース-1974年@葛飾公会堂 


「京都のまちまで」という唄は、ちょうどこんなことしてたころの唄。
じゅんちゃんと2人でヒッチハイクで、京都経由で岡山まで行き、
南に下って、下津井という港からフェリーに乗って、
瀬戸内海の「牛島」という島まで、旅したときの唄です。
京都から岡山へと旅立つ朝、「京都ほんやら洞」のそばの、
「中島食堂」という定食屋さんで朝飯を喰うことに。
その店は、注文する時にレジでお金を前払いすることになっていた。
そして、こちらが注文したものを、レジのお姉さんが、
マイクで奥の厨房に伝えるシステムで、その時に、
注文する定食と、自分の名前を告げなくてはならない。
「〇✕定食ね」、「280円です、お名前は?」と聞かれて、
じゅんちゃんは、「サンダンスキッドです」って答えちゃった。
んでオイラ、「✕〇定食」、「はい、お名前は」、・・ん?・付き合うしかない・・。
「ブッチキャシディだがね」・・・・・・。
出来上がった定食を店員のお兄さんが、
「サンダンスさ~ん」、「ブッチさ~ん」、と運んでくる。
呼ぶほうもアホらしいと思ってると思うが、呼ばれるほうだって実に恥ずかしい。
銀行強盗をする訳でもなく、明日に向かって何をも撃てぬまま、
さらに、夜食用の弁当まで買い求め、牛島を目指した旅でした。

Grass Hopping  長Q旅日記 中島食堂の部分 



当時の京都の聖なる地


その後、マンションの建設現場に肉体労働で働きに来ていた西荻窪で、
ほびっと村の、樵(キコリ)と知り合う。キコリがこれから開店するという、
「プラサード書店」の「内装工事を手伝ってよ」、ということで、お手伝い。
さらに、「一緒に本屋をやろうよ」と誘われるまま、
新小岩から西荻窪に移り住んだ。1977年12月のことだった。21歳の冬。
そして、オレカンの鵜沢章さんの紹介で、フィドルの小島康夫と出会った。
すぐに意気投合して、じゅんちゃんと3人で演奏活動を始めた。
「カントリードリンカーズ」、「新高ドロップス」、「プラサーズ」。
色んな名前で出てましたね。
その後のことは、すちゃらかブログの最初の方に書いてあります。
暇な時、サカノボッテ読んでみてね。
とにかく、じゅんちゃんと出会って、何だかんだでもうすぐ40年。
40年経ってるのに、まだ、じゅんちゃんのペースで酒を飲めないでいる。
でも、あのペースに付き合ったら死んじゃうよ。ホント。
生きてまだ唄っていたいので、酒のペースに付き合うのだけは、
この先も、どうかカンベンして下さい。
ホンデ、今後もよろしく遊んで下され。

さてと、あと、30年か40年したら、また回想文でも書くかぁ。

皆様も含めまして、末永きお付き合いを・・・・・!。㋳


開閉商事営業3課 やっちゃん



 「2012年、お!な姫たち④」

  ・ひいらぎ-ドーナツの穴
  ・藤田恵美-花束と猫
  ・つじあやの-Oh! SHIGOTO Special
  ・南壽あさ子-Landscape
  ・元ちとせ-語り継ぐこと
  ・手嶌葵-Miss AOI Bonjour
  ・中山うり-ホロホロ

中山うり-ホロホロ-20121219




2013年3月29日金曜日

すちゃらかんミトコンドリア《その2/宇佐見和夫 高杉康史に出逢う》

初めてやっちゃんにあった時の事から書かないといけないのだが、実はおぼえていない。歳は何故か憶えている。やっちゃんが高校2年生だった。わしは22才くらいだった、と思う。で、直接や
っちゃんに聞いてみた。「きっとあの時だと思う」と言って、かえってきたのが合唱団ひびきの
発表会。大手町かどこかでやった時、コンサートが終わった後にロビーでAJ子から私の妹のH
とその友達の高杉君てな感じだったらしい。そうおもうとそうだったような気がしてくる。人の
記憶ってのはこうしてつくられるのか。が、まあめでたくえらい若いやっちゃんと知り合ったので
あります。


この時かな?


その後どれだけ頻繁に会っていたかはわからないが、立石の「P]をみどちゃんが手伝っていた
時にあったり、まあその後じゅんちゃんがやっていた時は当然だと思うけど、また金町の「BB」
ではOFを紹介してもらったりした。バッタ村のコンサートにも来てもらった。その時最後に出た
バンドは本所高校の先輩のバンドで、やっちゃんが当時作った曲の「ショックだったぜ」はこの
バンドの影響だったかも。

金町では大淵には1回行った、その時はオレカンのうーすけさんもいたかも知れん豆もやしのお通しをえらいきにいっていた。大淵は安くてうまかった。やっちゃんじゅんちゃんは手伝っていた
TSちゃん目当ての部分もあったかもしれないか?{BB」には個人的のもよく行った。マスターは
別にジャズ喫茶もはじめた「38」という店だった、やっちゃんとじゅんちゃんとOFと4人で行ってみた。OFが「おれジャズなんて全然わかんないよ」と言った。わしはそんなんわかるわからないじゃなくて音を聞いて体に取り込んでそのまんま任せりゃいいんだよとか、実は言わなかったん
だけど、そんなこんなでいろいろしゃべっていたら白いブラウス黒いスカートを来たおねえさんが
突然現れてお客さま静かにしてください大きな声でしゃべらないでくださいと怒られた。その
お姉さんは後にのみ亭に現れるSAさんだった。世の中狭いよ。大淵の他ではてんぷら屋の
末広によくいった。安くてうまいこんなてんぷら屋が近所にあったらいいのにと行くたびに
思う店だった。

去年久しぶりに「末広」に行った




「末広」にて うと㋳


やっちゃんの高校の文化祭へ行った、すでにダーティミアカントリーバンドでマンドリンを弾いて
いた。この時の演奏を聞いたの記憶が何故ないかと考えていたのだが、今理由が判明したと
思う。寝坊して演奏時間に間に合わなかったんだと思う。その頃はとてもよく寝る健康なやつ
だったからわしは。でも、演奏には間に合わなくても行きました。で、あって見ると、実は2年生
にとてもいい子がいるんだけど、「エコールドパリの彼たち」と云う画集のようなスケッチブック
に色々描いたものを作った子なんだけど、と言ってTMちゃんを紹介された。ふ~ん、きっと
この子の事気にいったんだな。

     
    街灯の下で眼のキラキラした背の高い男の子と
    小さなかわいいおんなの子が夜空を見上げていました
    おんなの子が言いました「きれいな星ね」
    背の高い男の子はいいました「そうだね」

      
合唱団のメンバーにOBさんという女子がいて、青戸の団地に住んでいた。面倒見がいい人だった。やっちゃんの高校からは歩いて数分の所だった。皆で集まろうかというとそこの場所になる時があった。OBさんも良く飲む人で、ある夏の日、暑いのでご飯にジンの瓶に入れた冷たい水をかけて食べようとしたら、本物のジンの方の瓶を取り出してご飯にかけてしまい。食べてから分かったのだが勿体ないのでそのままジンかけご飯を食べた。結構いけたとのこと。そんなわけないですよね。やっちゃんとTMちゃんは学校帰りによくその部屋に行っていたらしい。たま
に遊びに行くと二人は良く来ていると言っていた。ある時は泊った事もあったらしい。
手を繋いで寝ていたといっていた。

やっちゃんが金町の実家を出て新小岩に部屋を借りたのは知らなかった。じゅんちゃんに連れて行ってもらったんじゃないかと思う。駅からちょっと離れていたが、便所台所共同だが台所は
広くて部屋も広かった。ここで私は芋焼酎の初体験をする事になった。ある日行ったら白波の
一升瓶があり横にやかんが置いてあり。皆普通に一升瓶からコップまたは湯呑に焼酎を入れ
その後やかんからお湯を入れてうまそうに飲んでいる。わしも真似して同じように作り飲んだ。
うう~っとちょっと込み上げてくるものがあったが我慢した、なんだこれは?焼酎といったら
宝焼酎位しか知らなかった。変な味だ。げっぷが出るとまた臭いが上がってくる。お~げっぷで
も楽しめるのか。他に酒は無いからこれを飲むしかない。我慢して少しずつ飲んだ。冷や汗を
かきながら。酒飲んで酔っ払う前からしんどかったのは生まれてこれが初めてだった。2回目
からはちょっと慣れた。この頃やっちゃんは自販機の設置のバイトをやっていて、自販機を置
けば一生食いっぱぐれないからと言われ、設置先のおばあちゃんがその自販機をきれいに
ふいている姿を見た話をして、そんなわけないのにさあ、と言いながらさびしそうな顔をして
いた。

実はこの頃、亀有界隈の仲間、大学の友達、合唱団の付き合い、バイト先の付き合いなどと色々あってなかなかやっちゃんやじゅんちゃんと飲む機会は少なかった。が、誘われたり時間があったりした時は突然たずねたりしていた。そのうち大学のS木やS水、Aぼなどは競馬のならび屋などで一緒になったりして彼らもやっちゃんやじゅんちゃんと知り合うようになった。S水はやっちゃんが新小岩に越してくる前にすでに新小岩に住んでいて、やっちゃんが越して来た時には西荻窪に越していた。場所はのみ亭の先の「おふくろ」の角を曲がったところの右側のアパートだった。彼は青戸のOBさんの部屋にも来た事があった。わしらみんな音楽を聴いて踊るのは不得意だった。そんな話しになった時にS水はそんなの簡単だよと、ストーンズのホンキートンクウイメンをかけながら「ほら、一歩進んで二歩下がる一歩進んで二歩下がる。これでいいんや」「ちょっとまて、それじゃ下がってばかりで壁にぶつかるよ」「その時は逆にするんよ。一歩さがって二歩進む。これでどうだ」そんなあほな事が楽しかった。

ダーティミアカントリーバンドを解散してからもじゅんちゃんとやっちゃんは一緒にやっていて、市川市民会館とか良く聴きにいった。新小岩仲間のもっちゃんとかなみちゃんも来ていて、また、鎌倉ブラザースなどの若い子とも一緒にやっていたので、皆でビールを飲みながらわいわいやっていた。立石の「P」では、ある時そのもっちゃんとなみちゃんも入って「なみ子とごはんです
よ」というバンドをやった事もあった。とても楽しいバンドだった。

ある時じゅんちゃんから「やっちゃん引っ越したんだけど一緒に遊びに行かないか」と誘われた。ところは西荻窪シネマアパートだった。二階の部屋で、窓は路地に向いているのだが、入口はバス通りの方でそこから入って二階へ上がりトイレの前を通ってから細い通路をずずーっと歩くと部屋に着いた。TMちゃんと一緒に住んでいた。窓からは趣のある飲み屋と中華屋と寿司屋、で界隈では有名なジャングル風呂のなんとか湯。早速ビールと焼酎で乾杯。午後の明るい日差しの中で飲んだような気がする。実はシネマアパートには2~3回しか行った事が無くて最初の時の明るい日差ししか憶えていない。やっちゃんは新小岩の時は自販機の設置とかやっていたが、この頃はもう型枠の解体をやっていたのか?四谷の鈴傳に呼ばれた時は解体をやっていたけど、わしは隣の信濃町でせっせとコピーをとっていた。

シネマアパートから吉祥寺よりの高架下の部屋に移ったと聞いて遊びに行った。じゅんちゃんと
やっちゃんで歌をうたって遊んでいた。この頃が一番二人でのりに乗っていた時のような気がするけど。ある時女の人が一緒になって唄ったりテープを取ったり酒を飲んだりしていた。Oさんだった。結構色々話す人でTMちゃんとは仲が良かった。また、ある時はフィドルの小嶋くんが来ていて酒を飲んで大きな声で楽しそうにしていた。ある日なんとなく遊びに行ってみると電気が付いていなくて、ろうそくをつけていた。どうしたのかと思ってTMちゃんに聞くと電気を止められたとのことだった。あらま、でもなんかろうそくの灯がゆらゆら揺れて遠い昔に帰ったみたいな気がしたものだった。

娘のA子ちゃんが生まれた時には神明通りを大分行った先を右にちょっと曲がったところのア
パートに移った。そこにも皆で遊びに行って。歌をうたったりゲームをしたり酒を飲んだり、翌日
は布団を干してごろごろしながら漫画を読んだりだべったり。正月に遊びに行った時は、やっち
ゃんが御雑煮を作ってくれて、わしはいままで食べた御雑煮のなかでやっちゃんの作った御雑
煮が一番すきで、自分がたべたいからという理由だけでのみ亭メニューにしたらと以前言った
事があるんだけど、やっちゃんはちょっと笑っただけだった。もう何十年も食べていないんだよな。
たまには食べたいんだけど。

それからやっちゃんはのみ亭をはじめた。やっちゃんは時々つぶやいているけれど、
のみ亭を小島君とやりたかったそうで早くに亡くなったのがやはり残念。今年は33回忌になる。
ープでじゅんちゃんとやっちゃんと小島君の演奏しているの(わしは勝手に小島メモリアルと
云う題名をつけているけど)を時々聴いている、とてもいい感じになってくる。
そんな風になりたいといつも思っているんだけど、力不足でなかなか難しい。

小島メモリアル テープ「Will the Circle be Unbroken
 - Country Drinkers]


御籠り堂こと白鳳荘時代については、「光玄脇毛事件」「ここじゃまずいよ事件」「やっちゃん
本当にごめんなさい事件」「僕と彼女の交換日記」他、いろいろあるのですがそれらは、またの
機会という事にします。なんとなくやっちゃんアパート変遷記風になってしまってすいません。

夏の夕暮れにのみ亭に行った。午後5時過ぎくらいでまだ外は明るかった。扉を開けると中は
薄暗くて、店の外の明るさとと店のなかの暗さのコントラストがとてもいい気分だった。
よく見ると奥のテーブルにやっちゃんのお父さんが座っていた。
「うーちゃん、どう?」
「あ、いやあ.....」
などと言いながら、お父さんが一杯飲まないうちに残りのビールを全部頂いてしまい
「やすし、ビール」
と、次のビールも注文してくれて、また注いでくれる。
誰かに似ているなあと思って考えたら笠智衆に似ている、と勝手に一人で考えていた。
注ぎ上手で何も言わなくても穏やかに泰然としている。
言葉はいらないよね。やっちゃん。

PS すいません、写真が少なくて。写真を入れておいた箱が行方不明になってしまいました。
お気付きの方は連絡ください。

今月24日(日)でこのブログの閲覧件数が1万件を超えました。みなさんありがとうございます。
開いた口を閉じずに今後もページを開いてください。励みになります。


営業一課 すちゃらかうーたろう


2013年3月28日木曜日

すちゃらかんミトコンドリア《その1/日川淳一 宇佐見和夫に出逢う》

 
高校になんか行きたくなかった。

学校から逃れたいというのもあったけど、親戚とか近所とかごったごったしたものを拒絶
したかった。
俺にさわるな! って、ふうに生きていた。
優しくされればされるほど、自分ではコントロールできないものが、自分の意志とは違う
方角に自分を運んでしまう。
ひねくれとか天邪鬼とかデキソコナイとか、そんな大甘ったれ屋で15年目の冬を乗り越え
た。
 
1412月、中学3年の時。
父親が死んで、俺は働く!という選択しか考えられなかった。
世の中の事はわからなかったけど、今この家で俺がやらなくてはいけないってことはわか
ってた。
母親が泣き、親戚の連中が毎晩やってきて、おんなじ将来設計と損得の公式を何べんも聞
かされた。二人の弟が俺の代わりに泣いた。
俺は・・・結局、高校へ行くことになった。
忌わしき学校群。何にも考えてない大人たちが作った何にもならない制度。
で、選んだのは62群。振り分けられたのは京成線/都営地下鉄線押上駅から歩いて10
分ほどの墨田区本所高校。その当時はサエナイ街だったのに、最近じゃスカイツリーのお
かげでスカシタ街になっている。ふんっ!

東京都立本所高等学校

  1年E組が俺のクラスだった。新学期が始まるとすぐ、朝のホームルームを使って毎日2
~3人づつ自己紹介をさせられた。
俺の番がきて夢中になってるモノを3つ話した。野球(俺は野球少年だったのだ)と音楽
(もうギターは弾いていた)と漫画(描くのも読むのも)。
そして漫画のところで、今一番シビレテいるのは永島慎二だと一方的に喋って話を終えた。
1時間目の授業が化学のため、実験室へ移動してた時、急に話しかけられた。
「君、永島慎二が好きなの? 僕も大好きなんだ。」
突然の侵入攻撃に無防備だった俺はタジロイだ。
「どんな作品が好きなの? 僕は・・・・・・。あれもいいよね。それから・・・・・・。」
彼は静かな語り口調で、熱く永島慎二を語っていた。不思議と拒絶する気にはならなかっ
た。俺も自分のベスト3を伝えた。やんわりと距離が縮まっていった。
実験室に着く頃、俺たちは最新作「拳銃物語」の評価を終えていた。
宇佐見和夫(うーちゃん)との付き合いはこうして始まった。
 
2年になってクラスは違ったが、漫画や音楽の好きと嫌いが一緒だったので、教えたり教
えられたり、時々会って話した。
放課後の音楽室で、俺のデキソコナイの新曲をいつでも真正面から聴いてくれた。そして
ココがいい。ココがだめだ。とアドバイスしてくれた。そうして俺は曲づくりってヤツを
覚えていった。
高校の終わり頃になると、俺は時々しか学校に行かなくなったので、あまり会うこともな
くなっていった。
うーちゃんも受験で忙しかったのかなぁ・・・?
でも途切れないように気にしてた。
高校を卒業して、翌年の1972年春、高校時代の友人たちで美術方面に進んだグループ
と暇で唄がそこそこ歌える奴らとでコンサートをやろうということになった。葛飾ロック
フォーク村結成広告コンサートという長ったらしい名前がつけられた。サブタイトルが
いるということになり、「僕達は葛飾でバッタの大群を見た!」というのに決まった。命名
者はうーちゃん。
会場は今は無き葛飾公会堂(現在はシンフォニーホールという名で建て替えられた)。手分
けして出演者の交渉と入場券の押し売りに走った。この時、なぎらけんいちを呼ばなかっ
たら、当然あの唄は生まれていない。
その年の暮れ、金町にアパートを借りた。
常磐線沿線の喫茶店が情報室になった。若さにまかせた話が、俺たちを浮かれさせていた。
亀有の「B」や金町の「C」。2店とも今はない。
バイトも一緒にやった。競馬の指定席券を買うための並び屋(金曜日の夜から土曜の朝ま
でずっと並んでるんだ。競馬好きのオヤジ達の代わりに。)、展示会の会場づくり(これも
夜中に作業。広~いフロアで只々トンカチで釘を打つ。)、工場の屋根のペンキ剥がし(こ
れは真夏の炎天下。脱水と屋根の灼熱照り返し。)・・・。
金が入るとそのまま呑み屋に向かった。明日のことは明日考えて、今日やりたいことだけ
に夢中になっていた。
この時期、俺は一人で歌っていたが、ロックバンドがやりたくて、うーちゃんの中学校時
代の知り合いSを紹介してもらった。友達が友達を呼んで、五人編成になり2年ぐらい続
いた。毎日唄を作って、毎日歌ってた。
ライブハウス・学園祭・野外コンサート・・・、話があればどこでも歌った。俺を除いて
みんな大学生だったため、卒業と就職のため一旦解散しようということになった。最後の
演奏は、葛飾公会堂だった。
葛飾ロック&フォーク村は、その後葛飾バッタ村に変わり、さらにバッタ村となりコンサ
ートやミニコミ誌を発行、年2回ほどのペースでコンサートを開催しながら、1980年
頃に自然解散となった。

アサハカで一生懸命だった!


GRASS HOPPING 定価50円

 
時代は変わり、俺の住む場所も変わっていった。
新小岩・立石・北方・・・、俺が動き回る場所にはいつもうーちゃんがいた。
俺の唄を一番長く聴いている男だ。
あの日、高校の廊下で話しかけられてから、10年以上がたっていた。
高校進学という道を選ばなかったら、俺はどうなっていただろう。
いいや、考えてもしょーがない。人生はなるようになっていくだけだ。


バッタだった頃・・・。ファミリーかつしか/1974年2月号
 
  高校3年の文化祭で、俺とうーちゃんは即席2人バンドを組んで岡林やジャックスを歌っ
た。20分くらいのデビューだったけど、おれはめちゃめちゃコーフンしてた。うーちゃ
んはいつもどおり冷めていた。
その夜、家への帰り道。煙草をふかしながら俺は思った。また、こんな感じでうーちゃん
と演奏することがあるかもしれないナ。あるといいな・・・。
その予感は、12年後の1982年すちゃらかしゃいにんぐ結成で現実となっていく。

 
《営業2課 じゅんぼう》

2013年3月27日水曜日

すちゃらかんミトコンドリア

《予告/俺たちのいた場所》
1982年の結成から、30年を越えたすちゃらかしゃいにんぐです。
まぁ、あきれてしまいます。
変化はありますが、進歩がありません。
呑んで歌うの繰り返し、1・2・3・4・・・102030もう誰も数えてませんけど、
結婚前や子供が生まれる前からやってきて、愛想つかされてもやっています。
呑み友達から始まったバンドです。
が、バンドを取ったら、ただの酔っ払いオヤジです。3人とも。

昨年春くらいから、すちゃらかしゃいにんぐはいいカンジで回転しています。くーちゃん
効果です。ありがたいです。生きててよかったです。
俺たちは直線的に単純です。ムズカシイことはわかりません。
でもって、オヤジ達の人生は、今、午後の授業5時間目から6時間目です。やがて放課後
がやってきて、帰宅を促す音楽が流れ始めるでしょう。
そこで、ちょっと前だけど、あんなに遠くに・・・てな按配で、すちゃらかしゃいにんぐ
の黎明期を3人それぞれの出逢いとともに記しておくことにします


採取/1975年(?)頃。東京都葛飾区立石
  
  

2013年3月20日水曜日

すちゃらかしゃいにんぐCD制作底抜け脱線録り物帖 《前口上》&《その1/ベーシックトラックの巻①》

《前口上》
突然だが、CDを作ることになった。
いや、厳密に言うと昨年末から今年の始めに協議決定された「開閉商事2013年活動方
針」には、早くから組み込まれていた。
やっと発表できる! 
というのが正しい。
設立以来、「開閉商事って何なの?」
「何やってんの?」
「トンネル会社?」
「建具屋?」
「人買い?」
「不純なヤツラが・・・」
「社長が・・・」
などなど、火のないトコロに煙がモクモクと立っていた。
この度のCD制作への取り組みで、その活動並びに全貌が明らかになっていくことであろう。
社内からは、「いっつも温泉に行って酒呑んでるだけじゃねーんだからな! バーローめ!」
「やるときはやるんだからな! なめんなよ!」
などと叫ぶ者もいた。
壁にはゲンコの穴が3つあった。
だが、ソックスは履いてないけど、ルーズな3オヤジ+その他オーゼイでは、いつCDが
出来上がるか、60年たっても先は見えてこないだろう。
さらに、出たトコ勝負でアナログ人生をドンブラコと流れ行くお湯割りBANDには、近頃の
録音状況はチンプンカンプンワッツハプンだ。
そこで、緻密な計画性と作業力で、録音から制作全般を任せられる浪速無仁太郎氏に交渉
の後、引き受けてもらうことになったのである。
(個人的には緻密のアッオちゃんと呼ぶことにしている。)
これで、ぐっと現実的になってきた。
作業としては、3月中旬よりじわじわと始まってきている。
では、今秋完成予定のすちゃらかしゃいにんぐCD制作物語をリアルタイムで、これから
ボチボチとお届けしていこう。
《流行課/舟木橋 輝彦》

                                  《その1/ベーシックトラックの巻①》
3月17日(日)
今年は桜の開花が早い。
花の香りが流れてきそうな、ぽかぽか日和の日曜日。
空は澄みきって鮮やかに青い。
「ヒュー! ヘイトアシュベリーを想い出させる空だゼ! まったく。」
俺は大きく息を吸うと、アクセルを踏み込み加速した。
愛車フェラーリ458スパイダーが、排気量4499CCのダイレクトな走りで俺を風と一
体化させていく。
美女木から首都高に入り、FAIRGROUND ATTRACTIONからALABA
MA SHAKESにDISKを替えた頃、西池袋でC2を降りた。
肌を刺す朝の山手通りから早稲田通りを使って阿佐ヶ谷ヒルズへ。
モニターカメラを避けながら、エレベーターに乗り屋上に行く。
スナイパーの影はない。
背後に神経を集中させ、ペントハウスのドアーを3回ノックする。
Mr.Uはフル装備で俺を待っていた。
「待たせたな。」
「ノー。」
「行こうか。」
「ヤー。」
永福から再び首都高へ。
さらに中央道に入り、覆面パトカーを3台振り切って、国立府中で降りる。
ワインを20ガロンとビールを1バーレル、ローストチキンを200羽ほど買い込み、Y.
STUDIOへ向かった。

Y.STUDIO。
ここは海外のビッグアーティストからも熱く注目されているハイレベルなSTUDIO。
セキュリティー関係からか、住所及び建物は一切極秘扱いになっているため、内部の画像
をお見せできないのがザンネンだ。
・・・だが、SPがちょっと目を離したスキに・・・

IN STUDIO NOW・・・      photo Junbow

ふー、あぶねぇ。あぶねぇ。
手がブルブルだぜ。

しかし、この書き方は疲れるし、いつまでたっても中身に近づいていかねぇ。
とっとと切り換える。

でね、今日の予定っていうのはね、うーちゃんのベースとあたしのギターを録ることにな
っているの・・・。おっと、切り替えがうまくいかねぇ。もうツーレベル上げねば。

STUDIO入口で無仁太郎氏とくーちゃんに挨拶をし、打ち合わせのあと、セッティン
グに入る。いよいよだ。
収録曲は10曲以上あるので、今日一日でいけるとこまで録っておきたい。
車中でうーちゃんと打ち合わせておいた「スターダスト ラブ」から始める。
日曜の昼下がり、酒も入ってない状態でうーちゃんと二人。声(歌)のないすちゃらかナ
ンバーを無言で弾く。
ただ弾く。
こんなのいつぶり?
さらに弾き続ける。
ん? ・・・? 
何か違う!
ノレナイ つまづく 間違える。
悪い潮の流れの中に二人とも入ってしまったようで、イージーミスのキャッチボールが続く。
「あれ? なんでこんなトコで?」って、まさかの凡プレーが積み重なっていく。
丁寧に行こうと意識すればするほど、所どころで頭の中まっしろに・・・、あまりの繰り
返しに自分がナサケナクなってきた。
多分、お互いがそう思っているのだろうな・・・。

「お茶入れましょう!」
くーちゃんが絶妙のタイミングで空気を変えてくれた。
無仁太郎氏は、マイクのセッティング~録音方法まで、ベストの組み合わせを試行している。
一服して、とりあえず悪魔を追い出そう!
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
20分くらい、お茶の時間で過ごす。
ふぅ~・・・いい息が吸えるようになってきた。
普段どおりでいってみよう。よけいな事を考えずに音楽の中に入っていこう。
そんな懺悔を神様が聞いてくれて、なんとかいいカンジのまま「スターダスト ラブ」を録り終えた。
そして、1曲なんとかクリアしたら、ふわっと気が楽になった。
多分、外は夕暮れに向かっている頃。
「風が出てきたみたいだよ」「照明を変えてみようか」コンソールボックスから、時々「お
茶」が差し入れられる。
「了解!」さっきより語尾が上がる。本心で。
「懺悔の在庫、も少し出しちゃおうか?」やりとりが楽しい。
ゆっくり流れが変わってきた。

「港の酒場の物語」
「君は最高さ」
「夕焼け景色の彼方から」
うーちゃんも一歩一歩確かめながら、山を登るように弾いている。
だんだんお互いの音が聴こえてきた。というか慣れてきた。
「そうか・・・そうか・・・そうなのか・」
そして19時過ぎたあたりで、本日の作業を終了する。
後片付けして乾杯。
「ヤレヤレ・・・っと・・・」息を吐き出し、肩と体重を軽くする。
「一時はどうなるかと思ったヨ」
「2時頃だったけどネ」
ん・・・?、軽口もたたけるようになってきた。
終わってしまえば、振り返れるもんです。当り前だけど・・・。

2時頃・・・       photo ku-chan

  

ベース弾き近影     photo ku-chan

 
反省会もしっかりと終え、ダビングした今日のオシゴトDISKを聴きながら、残業感た
っぷりのオヤジ2人はMIDNIGHT HIGHWAYを突っ走る。
DISKの中の二人は何事もないように弾いて歌っている。
おぉ! 手を加えるとこんな風に、それっぽくなっていくのね。
さっきまでのスッピン状態からの変身に、本日の充実感がジワジワと染みてくる。

道はまだ始まったばかり。
そして長く、遠い。
だが、見えてきたものがある。
西から東へ光が、少しづつだけどね。

《営業2課 じゅんぼう》











2013年3月17日日曜日

開閉商事 壮年部毒女分会 花やしき遠足の巻

これよ


「も~地球が終わるから、花やしきに行くぞ~」
Aちゃんの叫びでこのツアーが決行!

参加メンバーは、Aちゃん Pちゃん K子ヘポコ ヘポコJrMちゃん Cちゃん

Aちゃんが、うちで遅刻して珍道中が幕を開けました・・・
総武線の車内で、おにぎりをほおばる美人4人。それを見た亜Aちゃんは他人のふり・・・

浅草寺でお参りもせず、花やしきに到着。


歓迎



まずはやっぱり、かの有名なコースター!
乗ろうとしたら、ヘポコが行方不明(;一_)
なぜなら、アイスクリームを求めて園内を彷徨っていたから
到着前からヘポコは「お腹すいた~」  おにぎり食べたはずなのに(実はお菓子もたべていた)

このコースター、なんとヘポコと同い歳なんです。
なかなか違った意味でスリル満点  でも130秒で終了(長いのか?短いのか?

お次はスペースショット  
Aちゃん、ヘポコ、Mちゃんはまだ命が惜しいため見学
PちゃんとCちゃんが挑戦 そらの彼方?に吹っ飛んでしまいました。


楽しいわぁ



園内は、どこぞの国のなんちゃってディズニーランドのような?人形たちがあちらこちらに・・・
なんとなくレトロというか、時が止まったような感じでしょうか。
そんな不思議な空間で、シャイなヒーローと記念撮影


おばはん戦隊シャベルンジャー


そんなこんなで2時過ぎに、花やしきを後にして次はもちろん・・・・

やっぱり、こっちがメイン?
1杯が2杯。2杯が3杯。そのあとは~
やきとり、お好み焼き、煮込みなど なかなか旨い店でした。
(名前は忘れました(_;)

ほどよく良い感じになったところで、帰途に着きました。

そして締めはカラオケ
ヘポコとPちゃん、Mちゃん、はじけます。
おなじみ、アニメ声のPちゃん 
そしてヘポコは唄い、踊り、グラスを倒しまくりました。

このツアーで一番大人だったのは、うら若きMちゃんでした。


ソファーの上(ー ー;)


介護室 ちえねえ


女子四人とオカマ一人で、遠足行ったのよ。
中央線の中でも、おやつとオニギリ食べながら、ずっと喋ってたわ。
煮込み通りのお店でも、お好み焼き、ポテサラと言いながら、ずっと喋ってたわ。
ずっと喋ってたら、飽きてきたので、カラオケ行って、ずっと唄ってたわ。どうよ、これが女子力よ。スチャラカのオヤジ達に負けないわ〜。
暫らくして、へポコに会ったら、骨折して、ギブスしてたわぁ。
酔っ払って中央線にパンチしたらしわぁ。強烈ね。
んで、アビ太が俺は、酒が嫌いに成ったとか言って、禁酒してたけど、酒が俺を嫌いに成らない
とか、うそぶいて、ベロベロでエロ噺してたわ。ばかね(°_°)

プンプンプン


給湯室 阿鼻子

2013年3月16日土曜日

のみ亭31周年記念パーティ&やっちゃん誕生会(予告)


やわらかな春の日差しがうれしい季節になりました。
強烈な花粉と西荻を震源とする地震に、悩まされてる日々です。
ここは、一発気持ちを切り替えて、下記の要領で明るいパーティを開催いたします。
関西、北海道、各地に散らばる同志、関係者の皆様にもお会い出来る事を期待しております。
やっちゃんのたんたん誕生会も兼ねておりますので、ハダカにリボンというベタな女子も、お待ちしております。

◯4月13日 土曜日
18時〜22時
西荻窪北口30秒
ライブハウス ココパーム
会費 3,000円
持込み、プレゼント、余興、演奏
大歓迎です
スチャラカシャイニングから重大な発表が有ります。ご期待を。アビ太

2013年3月13日水曜日

3月8日 ベンチでゴロ寝作戦 (稲生座ライブ)

花見でもしたくなるような、暖かな日だった。
のみ亭でテキトウにビール飲みながら練習していた、我々3馬鹿爺、
+ローディあび太は、高円寺へと向かう。
そう、今夜は高円寺稲生座で、夜の貴公子「べんちゃん」からのお誘いで、
夜の騎士団、「ベンズポップクラブ」と、
我々、「すちゃらかしゃいにんぐ」(くーちゃん、葉子ちゃん入り)、
とのライブなのです。しかし・・・、今時電車に乗るのに、
わざわざ切符なんか買ってるのオイラだけかぁ。トホホ、お待たせ。


陽気のせいか、金曜日のせいか、ちょっと浮かれた感じの高円寺の街。
ライブ前の浮かれたオヤジたちも、街にとけこんで歩いてる。
ってのは、ムリがあるかぁ。
ま、とにかく稲生座へ。すでに葉子ちゃん、くーちゃん来ていた。
立ち位置きめて、セッティングして音合わせ。
佐藤さんというエンジニアの方が、とてもキレイに音を作ってくれて、
気持ちよく音合わせをするも、何だかんだで7時半近い。
やば、あと30分でハラになんか入れて、ガソリンも入れなきゃ。
さぁ、べんちゃんや、オイラたちのアニキ、西八王子オススメの店へ。
しかし、その店、「バクダン」は、べんちゃんや、
ベンポプ&すちゃらかを聴きにきてくれたお客さん、その他で、
すでに満員。仕方なく焼き小籠包屋さんで、生ビールと小籠包2個、
羊串焼き2本で700円のセット、ん、安いジャン。
オイラは残り10分で、紹興酒一合。
8時ちょうどに戻るも、Pか、Chえ、BON、Shちゃん。Mるさんたちが、
「バクダン」から戻ってない。戻ってきたら始めるかぁ。


「ビヤ樽ワルツ」が1曲目なんて初めてじゃないかな。
でも、やりなれてる曲なので、順調なスタート。
くーちゃんのアコ、いきなりいいカンジで揺れてる。
で、「人のいない祭り」。この曲はベンポプもカバーしてくれていて、
タイのチェンマイで行われた、「いのちの祭り」で唄って好評だったそうだ。
うーちゃん、ベースびんびん来るぜ。
ほんで、ゴジラも出現しちゃうかもしれない、とある港町の、
「港の酒場の物語」。葉子霧笛がむせび泣き。
続いて、僕だけ唄っててもなんなので・・、と葉子ちゃんの唄う、
「ワルツィングマチルダ」。オーストラリアの第2の国歌。
オイラも2番の歌詞を唄わせてもらう。うー、暑くなってきたぞ!
お次は、茨木のり子さんの詩に、じゅんちゃんが曲をつけた、
「わたしが一番きれいだったとき」。
これは、あのピート・シガーも唄っている。
片桐ユズルが翻訳した、「When I Was Most Beautifulu」。
葉子ちゃんのクラ、すてきにスィングしてるぅ。
へてから、すちゃらか結成のころから唄ってる、
「サマータイムジャンプ」。
CCRの「Willy And The Poorboys」のイメージです。
さぁ、ガソリン切れ間近、ラストはやっぱりコレ。
「サイフはからっぽ」。オイラ、リズム切りにはまってしまい、
自分の唄うべきパートをすっとばしちゃっただよ。スマヌ。

今日は、葉子ちゃんのすぐ後ろで弾いてた。
葉子ちゃんは吹く気合が入ると、
左肩がキュッと上がるんだけど、それをニシニシ見ていた。
思わず左の耳に・・・・おっとっと。
とにかくみんなの音がキレイに聴こえてやりやすかった。
音作りしてくれた、佐藤さんに感謝です。



早速、ガソリンの補給。ベンポプの演奏は表で聴いてたので、
べんちゃんのエロトークはあまり良く聴こえなかったけど、
「今まで4人しか女を知らない」、すかさず「うそつけ!」。
「単車の免許とってモーテル目指した」、とか好き放題。
ベンポプのベースは軽い音なのにうねり感があり、
ギターは艶っぽく、ドラムも淡々と着実で、
しかもみんなのコーラスもキレイ。ホント、いいバンドです。
共演できて幸せ。べんちゃん、呼んでくれてありがとう。
稲生座のエミさんに、「またお願いします」と連絡先聞かれた。
嬉しいかぎりです。




じゅんちゃんが翌日仕事なので高円寺で解散。
西荻組は、「のみ亭接吻の間」で打ち上げ。
来てくれたみなさんありがとう。
オイラのバンジョー運んでくれたあび太。優秀なローディです。
金曜のせいか、山のりちゃんや、ささしょう、Mッキー、Sまちゃん、
Oとちゃんなどやって来て、朝5時まで。
楽しいことはいいことだ、。
キープオンお調子で突っ走ろうぜ。

開閉商事営業3課 やっちゃん