2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2012年9月28日金曜日

〇月〇日〇曜日 その1

 あれっ?いつの新聞だったかなっと、何日か前までさかのぼって探したが、見つからなかっ
た。最終面だったようだったから、さくらちゃん(カメです)の掃除で使ってしまったのだろ
う。何の記事かというと浅草フランス座の幕間のコント芸人の写真展を元フランス座でやって
いるという記事だった。そういや40年前くらいにフランス座に行った事が何回かあったっけ。
その頃あいも変わらずフラフラしていたが、近所にダーティミア―カントリーバンド(今のス
チャラカのじゅんちゃん、やっちゃんが昔やっていたバンド)のダブルボーカルの中川凡平ち
ゃんが住んでいて、ある時どちらが言いだしたか忘れたが、フランス座にモーニングサービス
がある、それも500円、朝11時まで大丈夫。「おっ!」「う~ん」「行った事ある?」「ナイ」
なら行ってみようか、バスで行けるから。と、話がまとまって、近くの道上小の前のバス停か
ら「浅草寿町」行きのバスに乗る。バスは旧水戸街道を通って大曲を過ぎ、堀切を通って荒川
を渡り、鐘ヶ淵の工場の跡地の塀に沿って南へ下る。白髭神社の側を通って向島3丁目を曲が
って、しばらくして言問橋を渡ったらもう浅草。ちょっとしたバス旅行。終点まで行く前に降
りて六区のフランス座へ向かう。本当に500円だった。ドキドキしながら踊り子さんの踊りを
見て、これは大変な事だなあと思う。なんでかって言うと、踊りの上手い下手がはっきりしす
ぎて、いくら若い子でもラジオ体操のような踊りじゃ見ていてもおもしろくない。踊りの上手
な人の方が見ていて楽しいという基本的な問題。スナックの女の人でも美人よりも話し上手な
方が客が付くのと同じ道理。しかし、なんてったこちらは初めてだから息をのみながら見つめ
る。で、合いの間にコントがあった。はっきり言ってつまらない。が、時々いい間でいいボケ
とツッコミがあると笑いがおきる。周りの親父連も聞いていないようで、聞いているのか。
ふ~ん。その時コントをやっていた芸人さんは誰だったんだろ?

 この間、のみ亭で花やしきなんか何度も行っているでしょう。と言われたが30過ぎまで行っ
たことない。高校は向島だったがそれこそ高校3年間浅草行った事は2~3回あったと思うが、
どこに何しに行ったかもさだかではない。卒業してからは結構行ってたが、ほとんど台東産業
会館、展示会の設営と撤去、サポート立ててパネルしいてテーブル運んで腰巻いて、口入屋みたいなじいさんから電話かかってきたら行っていた。しまいには大工の仕事が遅いのでトンカチ
持ってパネル繋いだらそれも仕事にさせられて、挙句の果てに青焼き渡されて現場まかされた
りした。そういや、じゅんちゃんも一緒にやったね。

 ある時、浅草の場外馬券所に向かっていた。雨だった。前から歩いて来る痩せたおっちゃん
にいちゃんがぶつぶつ言っている。「1000円が600万だよ。信じられねえよなあ。ブツブツ。」
何事かと思って入ってみると、直前のレースで60万馬券がでたらしい。中山7レース1200メー
トル不良馬場ユザワジョウ、スガロープと入って枠連3‐8で来て、60万位ついたらしい。ユザ
ワジョウはその前中京で1000mの日本レコードを出しているからもしかしたら買えるかもしれん
がスガロープは公営出身でずっと惨敗、不良馬場だったのが影響したようで、足もと悪いと先
に行ったもんが有利なのが中山の馬場、ヨシノスキー、レッドパンサーならさせたかもしれん
が距離が短すぎるか。

  競馬は小中学校1級下のNの父親が共同馬主をやっていた事があって、1開催8日間の通し
の指定席券を代わりに並んで買うというバイトを始めたのが最初。夏は地方開催なのでない
が、中山、府中開催の前には必ずある。初期は徹夜で並んで、朝チケットを買ったが、段々
加熱してきて1週間前位から並ぶ人が出始めて、ある時から整理券を前日出すようになり、
翌朝並び直してチケットを買った。整理券の時にいなかったり間に合わないと、キャンセル
待ちで並ばないといけなくて、そうするとそのまま朝まで待つ事になる。一度一人遅れてきて
キャンセル待ちになって、その日の夜中に雪が降り、心配して探したら半分雪を被って、
シュラフの中でまだ寝ていた。それで、最初のバイトの時にせっかく競馬場に来たんだから、
どんなものかやらないといけないだろうと勝手な理屈をつけて、金ならあるしてな事で始め
たんだけど当日の3R新馬戦から始めた素人が新馬戦買ってどうすんのと思うけど、こっちも
初めてなら向こうも初めてだからなんてことは考えもしなかった。このレースが後に伝説の
新馬戦だったと勝手に今日まで思っていたら大きな勘違い。トウショウボーイとホウヨウ
シルバーの一騎打ちでトウショウボーイが大差で勝ったのだが、このレースはトウショウ
ボーイ2戦目のつくし賞だった。



                      昭和51年2月22日つくし賞


トウショウボーイの新馬戦はグリーングラスが4着シービークインが5着になった新馬戦
だった。ただ、トウショウボーイのあまりの強さに眼を見張ったものだった。その頃西に
は5戦5勝のテンポイントがいて強いうえに美しい馬だった。この世代は非常に強い世代で、
この年の有馬記念もこの当時の4才(現3才)の2頭トウショウボーイ、テンポイントで1、2着。
よく年の有馬記念もテンポイント、トウショウボーイの1、2着。この時はトウショウボーイに
肩入れしていたが、競馬報知の写真を見て盛り上がった筋肉と全身から溢れ出る力強さに、
トウショウボーイのスピードも叶わないだろうと思った。マッチレースの結果、最後
差し返して4分の3馬身差まで詰め寄ったが負けてしまった。世代の強さで言うと、春の天皇
賞を同一世代で3連覇したのはこの世代しかいないと言う事が一番証明していると思う。
トウショウボーイとシービークインの仔のミスターシービーが3冠馬になって、喜んだのもつ
かの間、翌年の3冠馬シンボリルドルフにあっさり負けた時には脱力、その後競馬はやめまし
た。
 しかし、他に趣味の無いじじいは性懲りもなく後になってまた始めたのです。
で、結果はどうかって?ほとんどダメだが安田美沙子ちゃんに新潟2歳ステークスを取らしてもらいました。 考えんのしんどいから他人任せ。それじゃあまずいよね。


 
昭和51年12月19日有馬記念
 
 
その頃、友達が貸してくれた本に志摩直人さんの「風はその背にたてがみに」という本があっ
た、その最初の見開きに

乙女らその美しさを花と競い
その速さを風と競う
 
ではじまる詩と桜花賞のレースの流れるような桜の花、騎手の色が写っていたその美しさは
写真だったけど思わず息をのみました。

PS 今日のみ亭のライブに行きました。さこ大介さんでした。さこさんの歌はとても親しみやすい曲もあるのですが、なかに初期の昭和歌謡っぽい唄にアメリカンスタンダードのテイストがある曲があって、とてもすてきです。半音とかマイナーのコードの使い方がとても身にしみます。昔デイリースポーツで働いていた事があるそうです。デイリーは日曜の夕方の早版が競馬ファンにとっては結果を知るうえでは一番早い新聞でみな重宝していました。その時の同僚で早くに亡くなった方をしのんでの歌「港の見える競馬場」という唄を歌っていました。いい歌でした。また、聞かせてください。
 
開閉商事 営業一課  すちゃらかうーたろう

2012年9月19日水曜日

ARIKO



9月16日。アリコの命日だ。いつものように写真を飾り、
コップにビールをつぎ、お香を焚く。
やってきたお客さんが、「あ、そうか、命日かぁ」と、
自分のコップとアリコのコップをチョンする。
そして、それぞれの思い出話をはじめる。

キレイな女だった。キレイな人間だった。
もう、こんな女は2度と現れないだろうと思いながら、
一緒に行った中国のことを思い出す。この時、大阪支社のたかしも同行した。
1984年8月、上海の和平飯店でJAZZを聴いてた時、
アリコが先頭きって踊りだし、そのうしろに、一緒に行ったみんなと、
レストランに居合わせた西洋人観光客までもつながって、ジェンカになった。
まるで、巨大な龍の踊りのようで圧巻だった。つい昨日のことみたいだよね。

アリコは、「すちゃらかしゃいにんぐ」の大ファンでもあった。
関東、関西、いろんな会場に足を運んでくれた。
そして、いつも絶妙のタイミングで合いの手を入れて盛り上げてくれた。
日野あっちゃんとハモるように、「すけべマイケルゥ~」。
「え、もしかして、やっちゃん唄うの?キャーたっかすっぎさ~ん」。
ほんで、一緒に唄ってくれた。
「自分ら最高やで!」。うれしいことを何度も云ってくれたね。

アリコは、維新派の制作をやっていて、(アリコが維新派をここまでにした、
と云っても決して過言ではない)大阪と東京を行ったり来たりしていた。
東京に来た時は、当たり前のようにオイラの部屋に泊まりにきて、
何度も同じ布団で添い寝した。キレイな寝顔だったな。

2001年2月、のみ亭のお客さんの広い部屋を割安で借りる約束。
アリコが東京で活動しやすくするためだ。
そして、4月。満月洞での、「のみ亭20年突入パーティ」の時、
わざわざ大阪から駆けつけてくれた。
疲れた顔をしてるので尋ねると、
維新派の情宣でほとんど寝てないんよ、と答えてビールを口にした。
まもなくして、ガンが発見され、闘病が始まる。
そして、9月16日、逝ってしまった。
かわいい浴衣着て、ちょっと散歩にでも出かけるかのようだったね・・・。

結局、部屋は一度も使われることはなかったが、居候が一人住み着いた。
アリコの古くからの友人だった。

開閉商事  営業3課やっちゃん

2012年9月15日土曜日

開閉商事設立物語 後編

『 YOU MAY SAY I'M A DREMER / J.W.LENNON 』

さて、会社名は決まった。
会社は出来たが、社員がいないと会社にならない。オヤジ3人ではなんともさみしい。
社長だって必要だ。そこで設立準備会は、すちゃらかしゃいにんぐの30年の中で、
一緒に演奏したり、音で接したつながり(音楽的には接し音=セッションね)など、
関わりあいのあった人達やバンドの中から本人の了解も取らず、勝手に社員登録して
しまうという方法を選択した。

ん~、ココイラヘンある意味会社っぽいなぁ。日本流ね。あくまでも。
社長は,ミヤコ蝶々を引き継いで女性が好ましい。
そこでミヤコ蝶々社長のツッコミキャラ路線からちょいとひねって、ボケ切り替えし
ライセンスA級の照美ちゃんに満場一致で決定。
「フフフ、いい仕事してるぜ。」とドヤ顔が3つ重なる。
事業内容なんかも入れちゃうといいカンジなんで、すちゃらかソングの継承と伝達と
入れてみた。

社歌もスイスイスーダララッタで、こしらえた。
かくして会社概要なるものが出来上がり。


で、これが社歌。

        社歌

  鳴呼 いい加減は我に輝く 
                     東海林 正一 作詞・作曲                
                               
  ひとつ山越しゃ ほんだらったほいほい
  開けなきゃ見えない 未来と扉
  明日という字は明るい日
  好きという字は女の子
  開閉 開閉
  開閉商事

  馬鹿の三寸 のろまの五寸
  閉めなきゃいけない 気持ちと扉
  苦しい時の神頼み
  楽しい時の恵比須顔
  開閉 開閉
  開閉商事。

今夏の関西興行は、まずまずで終わった。
今年度もあれこれの活動が予定されており、来年の決算報告に期待と嘲笑が寄せられている。
諸君! あきれる事はいつでもできる! ここはどーかひとつ長~い目でいってみよ~!


会議ならまかしとけ!


《開閉商事 営業2課 じゅんぼう》

2012年9月13日木曜日

開閉商事設立物語 前編

『 I  HAVE A DREAM/M・L・KING 』

すちゃらかしゃいにんぐというバンド名は、かの名TV番組『スチャラカ社員』
に由来している・・・って事は誰もが知ってるどーでもいい事実である。
ん・・・?
でもないか!
まぁ、あえて知らない人の為に説明しておくと・・・

     『スチャラカ社員』
   朝日放送(TBS系列局)による、1961年4月2日から1967年4月30日まで
      放映された大阪発のコテコテお笑い番組。
   放送時間は日曜12時15分から12時45分の30分。後にこの時間帯は牧伸二司会
      の『大正テレビ寄席』とぶつかり、どちらを選択するかおおいに苦悩する。
   演出/澤田隆二 脚本/香川登志緒。
   舞台は海山物産という会社で、出演は社長/ミヤコ蝶々 支店長/横山エンタツ 
      社員/中田ダイマル ラケット 長門勇 人見きよし 藤田まこと 白木みのる 
      川上のぼる 平参平 藤純子・・・など。
    「ハセく~ん」「ほ~んと、ちーとも知らなかったわ~」「早~い~話がなぁ~・・」
      「知らない~知らない~知らない~」など、小中学生が即飛びつく流行語が満載であっ
      た。同じ頃のメイド イン オーサカの番組には、やりくりアパート 番頭はんと丁稚どん
      とんま天狗などがあって、1962年5月開始のてなもんや三度笠へと続いていく。

で、ここからが本題なのだが、
ある日のこと、すちゃらか に しゃいにんぐする社員(バンド)として、
私たちも海山物産のような会社が欲しい!!!
という緊急動議のもと、「ヒマなように見えるが本当は忙しいんだゾ!」・・・
なぁんてなハッタリをかましながら、本心は忙しくてもヒマヒマでもバカバカしい事が
大~好きという、いつものメンバーが、いつものように集まり、会社設立準備のための
会議が開催された。
場所は都内某所の中華料理店「O」。

はじめチョロチョロ、中ハッパ、最後はありゃこりゃ酔っぱらっぱ。
という正しい進行の後、会社名は海山物産に呼応して○○商事という名称をつけた方が
いいのではないか!、との根拠のありそうでなさそうな提案を踏まえて、
『開閉(あけしめ)商事』の名称が紹興酒とピータンと餃子を注文するついでに、
するするっと決定されたのである。

→以下、後編に続く。

社員は輝く


《営業2課 じゅんぼう》

2012年9月5日水曜日

ふうてんとの日々とこないだののみ亭。

7月までは午前中散歩三昧午後から練習。関西ツアーが終わった後は、しばらく頭の中にワン
ショットポルカ、これこそ男達の人生等がぐるぐるぐるぐる回っていてどうなるかと思ってい
たが、今はもう聞えず代わりにどういう訳か光玄の満月が聞こえてくる。はてさて、ツアーの
後は暑いので散歩もやめた。家でふうてんとの日々と言ってもフ―テンではなくて、猫のふう
ちゃんとてんすけのこと。暑さに耐えて36度位までは我慢できると勝手に決め込んだが、ふう
ちゃんてんちゃんはぐだぐだ。二人の機嫌を取ってあげたいが、どちらにせよ午前中はふうは
箪笥の上、てんはサッシと箪笥の間と決まってる。午後になって西陽がきつくなると、わしも
含めてさすがにみんなバテバテの様相。30度に設定してクーラーをつける。二人とも表情が和
らいで動きも出てくる。ふうはわしの前にやってきてじいっと座って人の顔を見る。声は出さ
ずに口だけ開けてふにゃとなく。「あかん、今入っているご飯食べ」と言って知らんぷりをし
てもダメ、じいっと見つめる、飯やりじじいの負け。ご飯を入れてやると臭いをかいで勝ち誇
ったようにどこかへ行ってしまう。「くそー、次はやらん。」てんすけはご飯寄こせとは言わ
ないで皿の手前にたってじっと皿を見つめる。きっと新しいご飯がどこからかやってくるはず
だと思っているように、ただひたすら見つめるじっと待つ、飯やり爺は不憫に思ってご飯をあ
げる。また負けた。そのあとまたぐでぐで。



ふうちゃん
 
 
   てんちゃん  


で、夕方になって風が出てだいぶしのぎやすく、のみ亭へちょっと早いけど行ってみるかと。
入ってみたら30thパーティーのポスターを描いてくれたあきちゃんがいて、わしの一足先に
入ったのがボサノバを唄っているのりちゃんだった。のりちゃん今日はのんだくれる日との
こと。こんな早い時間に二人ともめずらしい?そこへ早い時間はめずらしくない恵子さんが
やってきて、すちゃらかのブログで〇〇恵子って書いてあるんだけど、わたしは〇〇なんだけ
どとクレームと言われても、こっちは旧姓しか知らないからきちんとインフォメーションしな
くちゃ。そこへわが開閉商事のてるみ社長とありさん庶務課長登場。ふたりはすちゃらかの
ライブのビデオを何時もとってくれている関西ツアーの時は来られなかったけど。以前もらっ
たビデオが読みこまないので、そう言って渡したと思っていたら、社長はもらっていない、
おかしいなあ変だなあと言っているところへ、やっちゃんがこれじゃないと出してきた。
「すいません。社長。渡してませんでした。」
大阪ライブの時のビデオ、やっちゃんとこの機械だと読みこむがわしんとこでは読まない、
どこが変か社長にチェックしてもらう事にする。そのうち、ようさんかっしーなどが来て、
岡本さんが10年ぶりにのみ亭に来たという女の子を連れて入って来た。岡本さんは大昔のみ
亭でタイに行った時の写真を整理していた事があって、それを見ていたやっちゃんがその後
タイにどっぷりハマったと言う原因を作った人。岡本さんがタイでとって来た写真は人の
表情がとてもよかった。他にもタイ語で本もだしているらしい。かもちゃんがやって来た。
この間バックに流れているのはすちゃらか大阪ライブの時の演奏。と、のりちゃんが
「やっちゃん、このDVD買いたい、わたしの友人に訊かせたいから。」
うれしいことを言ってくれます。
しかし、さっき書いた理由で渡したはいいが読めないのでは困るから、ちょっとまって。


  音太小屋ライブのDVDを持つのりちゃん



そういやあ、26~28年前のツアーの時は西荻からもみんな揃って関西へ来てくれて西荻関西
合同すちゃらか大会になったけど、今年はそういう訳でもなかったので、お得意様みなさんに
配る分も作らなきゃいけないかな、などと思いながら帰り道「バッチリやったぜよ、この夏が
終わる~」光玄の歌の替え歌が出て来た。

終わりになりますが今年のこの後のすちゃらかしゃいにんぐの演奏予定
  10月21日(日) のみ亭  +多田葉子ちゃん
  10月28日(日) 高円寺界隈 場所未定
  12月2日(日)  のみ亭
以上が現在の予定です。御用と御急ぎの無い方はフルって参加しましょう。
また、その他御用の節は開閉商事東京支所「のみ亭」迄

営業一課  すちゃらかうーたろう