2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2014年12月26日金曜日

そもそもの話

小学6年生の冬だったと思う。
ん~・・・、1964年だ。
M野さんちが引っ越した。ってのを聞いた。
「探検に行こうゼ!」
俺は手下2~3名を連れて、M野さんちへ向かった。

M野さんちは町工場を経営してて、ちょっと前に閉鎖したことは知っていた。工場は大きくはないけど、ちっぽけでもなかった。
M野家の住居は、七人家族の二階家で、俺の家の一つ違いの路地にあった。
俺の歳より上に女一人男二人、下に女一人男一人の5人兄弟だった。
一つ年上のヒロちゃんとは、よく遊んでいろんなことを教えてもらった。
その当時の引っ越しは、今ほど家具も電化製品も多くなかったので、手間も時間かからず済んでいたのだった。
俺たちは硝子戸の玄関を開け、主の居なくなった家の中に入っていった。薄明りの中で部屋はガランとしていた。ここで、夏休みにみんなで宿題をやり、ふざけあったり、テレビで相撲を見たりしたのだった。
「いなくなっちゃったんだ・・・」
もう会えないというサミシサで、急に胸がせつなくなった。
何故だか、転校生というモヤモヤしたものに結びついてしまった。
階段を手さぐりで上がり、二階に入ってみた。二階は陽が少し射し込み明るい。
開けたままの押入れにギターがあった。横にねかされていた。
ガットギターだ。その頃は、クラシックギターって呼ばれていた。今でもか?
忘れたのか? 置いて行ったのか?
俺は手にして、ボロ~ンと鳴らしてみた。
「弾けるの?」
みんなが興味深々で覗きこむ。
「弾けないよ~」
俺は答えて、ギターをじっくり眺めた。持って帰ることにした。

ちょいと遡って3年生くらいの時、学校から帰った俺は畳の上でぼけ~としてた。で、音楽の時間に習った唱歌のような唄を口ずさんでたら、隣の部屋でいっぷくしてたオヤジとおふくろ(俺んちはちっぽけな工場をやってたのだ。)が、「淳一は音痴だね~」と声を合わせた。
「そうか・・・、俺は音痴なのか~」
歌はヘタだと思っていた。でも、自分なりに気持ちよく歌っていたのだが、自分以外の耳ではそういう評価なのかと初めて俺の実力というか劣等性を知った。
それから人前では歌わないようにした。
なもんだから、音楽の成績はいつも2だった。5段階のネ。
本人のメーヨのために言うけど、あとは5と4だったんだからな。おい!
歌唱テストの時は、常に無言無唱でいたのだから当り前だ。
1でないだけありがたいと思え! はい! 
でも、唄自体は好きだった。
歌謡曲(流行歌って言い方もあったな。)からポップス。
三橋美智也から弘田三枝子。
ロッテ歌のアルバムからザ・ヒットパレードまで、流れてくる唄を覚えて頭に詰め込んでいた。
「平凡」や「明星」の付録の「今月のヒット曲全集」なんてのをめくっていくのもシアワセなひと時だった。
唄を覚えるのは、学校の勉強より好きだった。ん~・・・比較にならないか!

ギターなら音痴がバレナイ・・・。
俺はギターに俺の音痴人生すり替え作戦を託した。
最初は6本の弦の仕組みがわからなかった。1本の弦をつま弾いているだけだった。さすがにこれはすぐに飽きた。
周りに教えてくれる人はいない。俺だけではドーニモならない。
そこで、毎週毎月買っていたマンガを我慢して、ギターの本(教則本)を買った。
誰でもすぐに弾けるギター・・・なんとかかんとか、とかそんな本。
チューニングを覚えて、ドレミファソ・・・と音階がつながった。
そして誰でもやるように、チューリップや日の丸などの童謡をメロディー弾きをした。
歌謡曲も弾いてった。
ト―ゼン、禁じられた遊びもだ。
どんどん世界が広がっていった。


漫画少年でもあったのだ

1964年という時代は、ベンチャーズサウンドに火が付き、「エレキ」や「テケテケ」なんてな言葉が生まれた頃だ。
掃除の時間に、みんなでほうきを持って「♪乗ってけ乗ってけ乗ってけサーフィン」をやってると、きまって女子たちに顰蹙を浴びせられた。
モンキーダンスも踊ったなぁ。手足カクカクさせて・・・。
翌年になると、「勝ち抜きエレキ合戦」が始まり、ハルカ年上のイイとこのおぼっちゃん大学生たちがブラウン管の向こうでドヤ顔をしまくっていた。
暮れに加山雄三「エレキの若大将」が大ブレイクし、グループサウンズバンド(?)が、一つまた一つと誕生していった。
そして66年には、ビートルズが来日する。
俺は中2になっていた。


小6の時、少年サンデーに
掲載されてた

中はこんなカンジ ①

世界三大だゼ ②

なるほーだゼ ③

ためになるゼ ④

コードというものを覚えた。
俺の弾く安物ギターから革命的な和音が飛び出した。
かき鳴らすとすぐそこまで・・・、あこがれのグループに近づけた。
俺は感激&感動したネ。
朝も夜中も弾いていた。
「うるせー!」って怒られるから、工場で弾くのさ。
俺の持っていた教則本には、ハイコードだけが記載されていたので、そのトーリに進んでいった。いや、ローコードも記載されていたのかもしれないが、フレットを移動させればいいハイコードで押さえた方が手っ取り早く覚えられるので、ハイコード方式を選択したのかもしれない。
なので、よく言われる「ギターやったけど挫折」のFやらB♭やらのバレーコードでつまづいた。っていうのはなかった。逆にローコードを知った時、な~んて楽なんだ。なんて思ってモノさ。
歌も少しずつ解禁してった。
一人でギター弾きながら、加山雄三の唄を歌っていると俺もハワイとかアルプスにいるみたいだった。
麻薬みたいに俺の頭をシビレさせていった

中学2年の時、お年玉でエレキギターを買った。
浅草へ行って質流れの店で、モズライトもどきの白と黒のずしんと重いヤツ。
値段は3,400円だった。
アンプを買うお金は残ってなかった。アンプラグドだった。
シールドもストラップもなかった。
でも、夜中に一人静けさの中、弾きつづけているとしみじみ至福を感じた。
そしてその後は、お年玉やバイトで貯めた金でギターを買い替えていった。

それから・・・、唄とギターとバンドと・・・、坂道を上ったり下ったりの人生になったってワケで、俺の今いる場所も、すちゃらかしゃいにんぐも、M野家の引っ越しから始まったっていう、そもそもの話さ。


《営業2課 じゅんぼう》

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