2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2013年3月28日木曜日

すちゃらかんミトコンドリア《その1/日川淳一 宇佐見和夫に出逢う》

 
高校になんか行きたくなかった。

学校から逃れたいというのもあったけど、親戚とか近所とかごったごったしたものを拒絶
したかった。
俺にさわるな! って、ふうに生きていた。
優しくされればされるほど、自分ではコントロールできないものが、自分の意志とは違う
方角に自分を運んでしまう。
ひねくれとか天邪鬼とかデキソコナイとか、そんな大甘ったれ屋で15年目の冬を乗り越え
た。
 
1412月、中学3年の時。
父親が死んで、俺は働く!という選択しか考えられなかった。
世の中の事はわからなかったけど、今この家で俺がやらなくてはいけないってことはわか
ってた。
母親が泣き、親戚の連中が毎晩やってきて、おんなじ将来設計と損得の公式を何べんも聞
かされた。二人の弟が俺の代わりに泣いた。
俺は・・・結局、高校へ行くことになった。
忌わしき学校群。何にも考えてない大人たちが作った何にもならない制度。
で、選んだのは62群。振り分けられたのは京成線/都営地下鉄線押上駅から歩いて10
分ほどの墨田区本所高校。その当時はサエナイ街だったのに、最近じゃスカイツリーのお
かげでスカシタ街になっている。ふんっ!

東京都立本所高等学校

  1年E組が俺のクラスだった。新学期が始まるとすぐ、朝のホームルームを使って毎日2
~3人づつ自己紹介をさせられた。
俺の番がきて夢中になってるモノを3つ話した。野球(俺は野球少年だったのだ)と音楽
(もうギターは弾いていた)と漫画(描くのも読むのも)。
そして漫画のところで、今一番シビレテいるのは永島慎二だと一方的に喋って話を終えた。
1時間目の授業が化学のため、実験室へ移動してた時、急に話しかけられた。
「君、永島慎二が好きなの? 僕も大好きなんだ。」
突然の侵入攻撃に無防備だった俺はタジロイだ。
「どんな作品が好きなの? 僕は・・・・・・。あれもいいよね。それから・・・・・・。」
彼は静かな語り口調で、熱く永島慎二を語っていた。不思議と拒絶する気にはならなかっ
た。俺も自分のベスト3を伝えた。やんわりと距離が縮まっていった。
実験室に着く頃、俺たちは最新作「拳銃物語」の評価を終えていた。
宇佐見和夫(うーちゃん)との付き合いはこうして始まった。
 
2年になってクラスは違ったが、漫画や音楽の好きと嫌いが一緒だったので、教えたり教
えられたり、時々会って話した。
放課後の音楽室で、俺のデキソコナイの新曲をいつでも真正面から聴いてくれた。そして
ココがいい。ココがだめだ。とアドバイスしてくれた。そうして俺は曲づくりってヤツを
覚えていった。
高校の終わり頃になると、俺は時々しか学校に行かなくなったので、あまり会うこともな
くなっていった。
うーちゃんも受験で忙しかったのかなぁ・・・?
でも途切れないように気にしてた。
高校を卒業して、翌年の1972年春、高校時代の友人たちで美術方面に進んだグループ
と暇で唄がそこそこ歌える奴らとでコンサートをやろうということになった。葛飾ロック
フォーク村結成広告コンサートという長ったらしい名前がつけられた。サブタイトルが
いるということになり、「僕達は葛飾でバッタの大群を見た!」というのに決まった。命名
者はうーちゃん。
会場は今は無き葛飾公会堂(現在はシンフォニーホールという名で建て替えられた)。手分
けして出演者の交渉と入場券の押し売りに走った。この時、なぎらけんいちを呼ばなかっ
たら、当然あの唄は生まれていない。
その年の暮れ、金町にアパートを借りた。
常磐線沿線の喫茶店が情報室になった。若さにまかせた話が、俺たちを浮かれさせていた。
亀有の「B」や金町の「C」。2店とも今はない。
バイトも一緒にやった。競馬の指定席券を買うための並び屋(金曜日の夜から土曜の朝ま
でずっと並んでるんだ。競馬好きのオヤジ達の代わりに。)、展示会の会場づくり(これも
夜中に作業。広~いフロアで只々トンカチで釘を打つ。)、工場の屋根のペンキ剥がし(こ
れは真夏の炎天下。脱水と屋根の灼熱照り返し。)・・・。
金が入るとそのまま呑み屋に向かった。明日のことは明日考えて、今日やりたいことだけ
に夢中になっていた。
この時期、俺は一人で歌っていたが、ロックバンドがやりたくて、うーちゃんの中学校時
代の知り合いSを紹介してもらった。友達が友達を呼んで、五人編成になり2年ぐらい続
いた。毎日唄を作って、毎日歌ってた。
ライブハウス・学園祭・野外コンサート・・・、話があればどこでも歌った。俺を除いて
みんな大学生だったため、卒業と就職のため一旦解散しようということになった。最後の
演奏は、葛飾公会堂だった。
葛飾ロック&フォーク村は、その後葛飾バッタ村に変わり、さらにバッタ村となりコンサ
ートやミニコミ誌を発行、年2回ほどのペースでコンサートを開催しながら、1980年
頃に自然解散となった。

アサハカで一生懸命だった!


GRASS HOPPING 定価50円

 
時代は変わり、俺の住む場所も変わっていった。
新小岩・立石・北方・・・、俺が動き回る場所にはいつもうーちゃんがいた。
俺の唄を一番長く聴いている男だ。
あの日、高校の廊下で話しかけられてから、10年以上がたっていた。
高校進学という道を選ばなかったら、俺はどうなっていただろう。
いいや、考えてもしょーがない。人生はなるようになっていくだけだ。


バッタだった頃・・・。ファミリーかつしか/1974年2月号
 
  高校3年の文化祭で、俺とうーちゃんは即席2人バンドを組んで岡林やジャックスを歌っ
た。20分くらいのデビューだったけど、おれはめちゃめちゃコーフンしてた。うーちゃ
んはいつもどおり冷めていた。
その夜、家への帰り道。煙草をふかしながら俺は思った。また、こんな感じでうーちゃん
と演奏することがあるかもしれないナ。あるといいな・・・。
その予感は、12年後の1982年すちゃらかしゃいにんぐ結成で現実となっていく。

 
《営業2課 じゅんぼう》

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