2015年4月26帰京集合写真

2015年4月26帰京集合写真
22015年4月25日~26日山梨県にツアーに行きました。26日東京へ帰る前にまだ居残った皆で集合写真 photo by Arisan

2013年6月12日水曜日

小島康夫との日々

その日の事は今でも忘れない。
1981年6月21日。
午後7時頃、仕事を終えて家に帰ると、薄暗い部屋の中で妻の美江子がオルゴールを鳴ら
して座り込んでいた。
泣き顔だった。
異様な雰囲気を察した俺は、ひと息吐いてから尋ねた。
「どうしたんだ?」
その途端、ぐしゃぐしゃの顔で泣き出した。
「小島くん・・ 死んじゃったよぉ・・・」
息が詰まった。
冗談でないことはわかったけど、なぜ? という疑問なんだか不満なんだかが頭の中でグ
ルグル回ってる。突然の出来事にどうしていいのか・・・、思考が止まり時間も止まった。
しばらくして、というかどれだけの時間が過ぎたのかわからない・・・。
二人で西荻窪に向かった。
 
千葉県市川市北方で俺たちは暮らしてた。
美江子は帯の仕立ての仕事で人形町へ、俺は図書館設計設備の仕事で亀戸から関東近辺の
現場へトラックに乗っていた。
その知らせは、やっちゃんの働いていた西荻窪ほびっと村/プラサード書店に入り、続い
てやっちゃんが美江子に伝えてきた。
長野県八坂村で喜多郎のレコーディングに参加してた小島康夫は、関係者を乗せた車を運
転して外出からの帰り、下り坂のカーブを曲がりきれず転落した。
車は斜面を滑り、何本かの木を倒しながら前のめりで止まったという。
同乗者は重軽傷、小島だけが帰らぬ人となった。
 
3年ほど遡る。
1978年。
西荻窪のシネマアパート。
やっちゃんとTちゃんの部屋に週末に行っては、酒を呑んでそのまま泊まったりしてた。
レコードを聴いたり、旅の話をしたり、映画のことや友だちのこと。いつも飽きることな
い話題で時間が過ぎていった。
でも、一番楽しかったのは二人でギターを弾いて歌っている時だった。
ある日、やっちゃんに相談した。
「なんか他の音入れたいね。バンジョーとかフィドル(バイオリン)とか。」
「そうだね。音が広がるよね。」
そこで、旧知のU澤に誰かいないか訊いてみた。
彼は、その頃オレンジ カウンティー ブラザースを抜けて、エドのバンドでベースを弾いていた。
そして、小島はそこでフィドルを弾いていた。
U澤に連絡先を教えてもらい内容を伝え、西荻窪駅の改札口で待ち合わせることとなった。
俺とやっちゃんが先に着いて、小島がフワッとやって来た。
そしてそのまま呑み屋へ。
「戎」が一杯だったんで、角の呑み屋にした。
俺と歳(学年)が変わらず、やっちゃんの康史と小島の康夫で康がかぶってる・・・なん
てのをネタにしながら、盛り上がった。
初対面なんだけど、こいつ絶対いいヤツ! って確信したよ。
で、そのままやっちゃんの部屋へ流れて、呑み直した。もちろん、ギター弾いて歌って笑
って愉快な一夜だった。
その後は、三人で時々だけど、ライブをやった。
なにせ、小島は売れっ子だった。エドズ・バム(エドのバンド)とか喜多郎のとことか、
南正人のレコーディングやボブズ フィッシュ マーケットのゲストなんかにも参加してた。
でも俺たちがライブの話をもっていくと、なんとかやりくりして合わせてくれた。
 
天才だったね。
レコードであっちこっちのフィドルは聴いてたけど、あんな音聴いたことなかった。
初見で合わせるのはモチロンだけど、ソロの時の盛り上げ方っていったらなかった。
山頂まで一気に連れていかれてしまう。そしてそれが仕組まれてたかのように盛り上げ、
盛り上げて、次につなげてくれる。
フィドルが泣いていた。
フィドルが吠えていた。
どんな曲でも、変わらない。
歌ってる時はけっして出しゃばらず、隙間を気持ちよく埋めてくれて、全体の構成みたい
なものをキチンと仕上げてくれる。
そして、ソロの時は・・・。何度も繰り返すが、小島以外がいなくなってしまうんだ。
小島のフィドルが入ると、錆びてた唄がピカピカに輝き出す。
確実に唄にうねりが生まれるんだ。
うまいフィドル弾きはいっぱいいるけど、あんなに感情を音にして、心から心に入ってく
るフィドル弾きはいない。
音階にない音がいっぱい聴こえた。俺には。
 
高校を卒業後、何年かして小島はヨーロッパからイギリスへ旅をした。
その時の話を呑みながら、俺にいくつも話してくれた。
アイルランドの民謡や楽器のこと。不思議なことや失敗談。
形見分けの時、俺もやっちゃんも何点か、服とか小物とか分けてもらった。
レコードも何枚かもらった。
すごい数のレコードがあった。
でも、もっと驚いたのは、それらが全部極めつけの一級品だったってこと。日本じゃ見か
けないジャケットがいっぱいあった。向こうで買って、船便で送ってきたそうだ。お母さ
んが話してくれた。
でもでも、極めつけの一級品だったということは、あとになって分かったんだ。
その頃の俺は、トラッドとかアイリッシュとかそんなに興味なかったので、フェァポート
とかサンディ―デニーぐらいしか話を合わせられなかった。小島はもの足りない思いをし
てたんじゃないかなぁ・・・と今になって思う。
話し上手でもあったよ。
「淳ちゃん。アイルランドの子供の遊びってね・・・。
学校からの帰り道、石ふたつ見つけて、かわりばんこに足で蹴って当てながら、それをず
っと続けて家まで帰るんだ。それだけ。イイよね。フフフ・・・。
 
実家は虎の門で中華料理店をやってた。
やっちゃんの部屋に集合ってことになると、時々中華料理の差し入れを持ってきてくれた。
「店で余ったやつだよ。」って言ってたけど、み~んなウマかった。
小島の死後、何度か店へ招かれ、お父さんにその話をすると、「あのやろー、それで友だち
に会うって時は、厨房でゴソゴソやってたのか。」なんて、嬉しそうに話してくれた。
小島は一人っ子だった。
住居は恵比寿にあって、小島とどこかで呑んで、遅くなったので泊まったことが2度ほどある。
真夜中の恵比寿駅からの道を昔の流行語を言い合いながら、フラフラ大笑いして歩いた。
最初に泊まった日の翌朝、トイレに行こうと部屋を出たところでお母さんに会った。
初対面なので、コチコチになって挨拶をすると、「ゆっくりしていってね。」とにこやかに
言われた。友だち慣れしてるなぁ・・・と思い、小島の友人の多さを改めて知った。
通夜の時は、300人以上が悲しみの列をつくり、家を取り巻いていた。
ここへも葬儀後に何度か招かれ、その度にお父さんと酒を呑んだ。
会津生まれで昭和を生き抜いた頑固そうなお父さんで、最初はものすごく緊張したけど、
話をするとすごく気さくで、照れ屋で、小島のことすごく愛してて、それがすごくこっちに伝わった。
涙もろくなって、酒も弱くなってしまったと悲しそうな笑顔で言ってた。
お父さんも亡くなった。店も恵比寿の実家も今はない。
お母さんとは昨年、お墓参りをご一緒させてもらった。
今年は33回忌にあたり、法要に呼んでいただいたので、またお会いできることになっている。
あれから・・・、毎年621日前後の日曜日に、駒込にある小島のお墓に行くコトが俺た
ちのキマリになっている。花と線香とヱビスビールを供え、それぞれが心の中で小島に近
況報告をする。
思い出はそこで輝きつづけ、残された者は老いを積み重ねていく。
数年前から、小島が生きていた年月を命日の回数が追い越してしまっていた・・・。
小島の若く、そして早すぎた別れが悲しい。
 
一度、Tちゃんがなにかの用事でいない夜があって、俺小島やっちゃんの男三人で「男の手
料理の夜」をやろうということになった。みんなで買い物に行き、呑みながら「手料理」を作った。
小島は油揚げを開いた中に納豆とネギを詰め、フライパンで焼いたやつを作った。
「おおっ! うめい。うめい。」
「フフフ、男の手料理!」
「あぁー 酔っ払ってるからうまい!」
「ガックリ・・・」
今でも時々こいつが無性に食べたくなる時がある。そして食べるとこの夜のことを思い出す。
亡くなる年の1月、やっちゃんとTちゃんにA子が生まれ、3人家族になった。
小島はA子を抱きながら「大きくなったら、俺の嫁になれよ。」なんて言ってあやしていた。
A子は今、2人の子供のお母さんだ。

やっちゃんとの3人バンド(「カントリードリンカーズ」とか「新高ドロップス」とか「プ
ラサーズ」なんてバンド名を使ってた。)の他に、俺と小島とY本/BASSとS田/PIANO
4人で「GRANDMOTHER JOINT」というバンドを作った。
ドラマーとかギター弾きとかが集まってきて、5人~6人ぐらいのメンバーになった。
「アメリカ民謡研究会」って団体を作り、市川市教育会館のホールを借りて、半年に1回
くらい「JOOK JOINT JUNK」ってコンサートを開いた。
自分たちで仕込みをして、ステージを作って、酒を持ち込んでガヤガヤとセッティングした。
知り合いの口コミだけで、音楽と酒の大好きな人間が集まった気の張らないコンサートだ
った。パーティーって言った方が近いかもしれない。
前日や当日、小島は北方に泊まっていった。梨畑に囲まれた丘の上の家だった。
小島が初めて泊まった翌朝、どこへ行っても梨畑に出くわす道を一人で散歩に出かけていった。
帰ってきて「淳ちゃん、いい所だね。ここ。」って言ってた。
小島が気に入ってくれて、俺は嬉しかった。
あちこちで俺の友だちに小島のことを紹介した。自慢したかった。そして、小島の音を聴
いてほしかった。
小島は誰とでも仲よくなった。悪く言う奴なんていなかった。
俺のクダラナイ冗談にいつもケラケラ笑い転げてくれた。
伊東四朗と小松政夫のコンビが好きで、俺とツボが一緒だった。
会うと「つんつくつくつくつ~ん・・・ひゃ~・・・」の合言葉で始まった。
眼鏡の奥にやさしい瞳があって、一緒にいると心があったかくなった。
みんな小島が大好きだった。
  
GRANDMOTHER JOINT/市川・1979

GRANDMOTHER JOINT/市川・1980

 
小島と美江子/市川・1980
   

プラサーズ/ナモ商会・19815月30
   

喜多郎のレコーディングで小島が長野に行く何日か前、5月30日。
俺と小島とやっちゃんの3人バンド(プラサーズ)で、ナモ商会(ほびっと村1階の八百
屋)のパーティーに呼ばれた。
6曲くらい持って、会場に行くと小島の友だちでH岩くんというベース弾きがいた。
一緒にやろうという話になり、4人バンドに変身した。(そうだ! H岩くんも初見でこの
日合わせたんだ。)
パーティーは大人も子供も騒ぎまくって、いつもながらの楽しい夜だった。
最後の唄は「天国の扉」だった。
後半、リフの「KNOCK KNOCK KNOCKIN ON THE HEAVENS DOOR」をいつもなら、ひと盛り上げさせてエンディングに入るのだけど、何故かコントロールが効かなくなってしまった。
小島もやっちゃんもコーラスをやめようとしない。会場中も歌い始めて、もう誰にも止め
られない状態になった。
このまま一晩でも歌えるような気になった。
歌いながら、どこへ連れて行かれるんだろうと思った。
突然、何故かフッと醒めて、テンポを落としていった。
長い坂道をゆっくりゆっくりとみんなで下っていって、演奏を終えた。
片づけを終えて、うま~い酒で乾杯をした。みんなで笑った。「唄」っていいなぁ・・・と
思う、いつもの瞬間だ。
めずらしく小島が真顔で語りかけてきた。
「淳ちゃん。今度みんなでツァーに行こうよ。あっちこっちいろんなところ。俺の知って
る店に話しておくからさ。来月長野に行くから・・・、そうだ、最初は仏陀でやろうよ。
善光寺の近くにあるんだ。」
「おっ! いいね。じゃ帰ってきたら連絡ちょーだい。とかなんとか言って、あっ忘れて
た! なんてのは無しだからね。」
「ふふふ、大丈夫。」
「じゃ、待ってるよ。」
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HEY Mr.K どうしているんだい
今でもおまえの事が気がかりなのさ
風吹く丘で誰を見てるのか
紫の雲に乗り 何処を飛んでるのか
 
HEY Mr.K 追いつづけてるのさ
今夜いつもの酒場で一騒ぎを終えて
終電にゆられ帰るところ
おまえと歌った唄を思い出しながら
 
HEY Mr.K 遠い灯がゆれてる
恵比寿 下北 西荻 街をすり抜けて
思い出がいつも帰っていくところ
あのレイジーブルース聴きながら 目を閉じよう
 
HEY Mr.K おまえを連れてった
あの夏の日が今でもあきらめきれないのさ
KNOCKIN´ ON THE HEAVENS DOOR 消えていくけれど
いつかまた逢えるはずさ 空の向こう側で
 
HEY Mr.K どんな時でも
変わらないものがある事 おまえに教わったよ
俺達はいつもあの頃のままさ
いいかげんな世の中をおかしく生きてやる
 
HEY Mr.K どうしているんだい
今でもおまえの事が気がかりなのさ
HEY Mr.K HEY Mr.K
おまえがいっちまってから 俺はさみしいよ
 
おまえがいっちまってから 俺はさみしいよ


《営業2課 じゅんぼう》

2 件のコメント:

  1. 「おこじ」っていってたんだっけ?小島君のこと。
    やっちゃんたちのアパート、シネマアパート、森田荘、吉祥女子高近く、ほんやら洞、プラサード書店、八百屋、いろんなところで小島君に出遭った。それぞれの場所にずっと居たみたいな感じで、部屋ではよく横になっていたね。理解力、包容力があって、冗談が通じる楽しい奴。フィドルを弾くと信じられないフレーズで、アイリッシュでもない、その時の音だった気がする。
    恒例のお墓参り、参加できなくなってしまいましたが、楽しみでした。蛙グッズを集めていたお父さんが早く亡くなってしまったのは残念ですが、お母さんと交流があって良かったね!

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    1. じゅんぼう2013年6月14日 19:18

      匿名さん。ありがとう。
      俺たちは亡くなる3年前に出逢った。3年間はあっという間だった。
      小島は強烈に光輝いて、消えていった。
      小島の生涯の中のいろんな時代で・・・、いろんな場所で・・・、俺たちと同じように思っているヤツはたくさんいるはず。
      このブログを始めたのは去年の6月。小島の墓参りからだった。
      今も小島は俺たちを動かし続ける。

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